ずっと期待という言葉が嫌いであった。
一種の嫌悪感とも言えるかもしれない。勝手に期待され、勝手に失望され、勝手に怒られる。それはお前の都合じゃないか。そんな期待をおれはほしいなんて言ってない。お前の勝手だろ。そう思っていた。
それが最近になり、期待にもいろいろな種類があるとわかってきた。されていい期待と、されると嫌な期待があるのだ。
されると嫌な期待と、されていい期待
期待されて嫌だと感じるのはどんな状況なのか。
たとえば、「掃除やっておいてね、期待しているよ」と言われたとき、ぼくはすごく嫌な気持ちになる。
自分の行動を制限されているような、コントロールされているような、相手の求める結果を押し付けられていような窮屈さを感じる。
「掃除やっておいてね」だけならまだいい。そのあとに加えられた「期待しているよ」には「絶対やっておけよ」という強制の意味を感じる。
そこに信頼はない。
「言わなきゃやらないだろ」という不信が透けて見えてしまう。
自分の都合の押しつけを「期待」といういかにも良さげな言葉でラッピングしているだけなのである。
ではどんな期待ならばされてもいいのか。
「あなたには、3年後にこの組織の中心人物になってほしい。そのためにこのようなスキル獲得を期待している」
そう言われて、嫌な気持ちになる人はあまりいないと思う。
いまはできなくても、この先にできている自分を信じてくれている。
自分にはまだ見えていない、そこにある可能性を見てくれている。
そう思えてくるのである。
信頼するためには
されると嫌な期待とされていい期待、根本的な違いは信頼の有無である。
遠回しに言ったとしても「言わなきゃやらないだろ」と相手を信じていないことは伝わるし、「あなたにはこんな可能性がある」と相手を信じていることだってちゃんと伝わる。
ではどうしたら相手を信頼する視点に立てるのか。
それは結果ではなく相手の成長に期待することである。
目の前の人の現在を見るのではなく、未来を見る。目の前の人の望む成長を感じ取り、さらにその先の可能性を見ようとしてみる。
正しい期待とは、未来のその人の姿を信じるということのだ。
自分に期待するとは
この期待、他者ではなく自分に対しても同じなんですよね。
良い結果が得られなければ落ち込むこともありますが、これは結果に期待しちゃっているからなんですよね。結果ではなく自分の成長に期待し、未来の自分の姿を信じられる自分になりたいと思います。