月曜の祝日、息子とサッカーをした。
パス練習をしたあと、1対1で勝負しようということになり、3点先取で勝負した。
お互いが2点を取り勝利にリーチのかかったあとのこと。
ボールの取り合いで息子が転んでしまった。ちょっと転んだくらいだったのでぼくはゆっくりボールをゴールまで近づける。
息子は服についた落ち葉を払っている。
「ゴールしちゃうよ~」
と言うと
「手が汚れたから洗いに行く」
と答えるのである。
お互いの我
息子は負けず嫌いである。
鬼ごっこしているとき、鬼になりそうになると「足が痛い」や「心臓が痛い」と言って中断を求める。鬼になったら「やめた」という。
ぼくはその行動をあまり好ましくないと感じており、今回のサッカーも中断させるためのものではないかと解釈をする。
公園からの帰りに話をする。話をすると言ってもぼくが一方的に主張するかたちだ。
「そういうの良くないと思う」
「負けたって別にいいじゃん」
「ルール外で負けないようにするのは違うと思う」
当然、息子はムスっとしている。
「教育」という不安解消
さて、この一連のやりとりのなかでぼくはなにを得ようとしていたのだろうか?
息子には、楽しく生きていってほしいと願っている。そのためにも周りの人といい関係を築いてほしい。そう願う一方で、不安を感じる自分もいる。
友達とうまくやっていけないんじゃないかという不安。
将来大事なところで投げ出さないかという心配。
この自分の不安や心配を解消したいがために、このように接したのだろう。つまりぼくが得ようとしていたものは、自分の不安の解消や安心なのだ。
愛する技術
最近は『愛』についてよく考えています。
愛するということは技術だとフロムは言う。人間的な成長なくして愛することはできないのだと。
息子とのやり取りでも、自分はまだまだ愛するという技術が未熟だなと感じたわけです。
世間ではAIの発展が叫ばれていますね。AIに聞けば知識は教えてくれるし、AIに頼めば仕事をしてくれる未来はすぐそこに来ていると実感します。
最近は仕事で解析作業や資料のまとめをしていても、「これってAIだったらすぐにやってくれるのに」と感じることが増えました。
人にできることは「愛すること」に集約されるのではないか。愛する技術を高めることこそ、自分のやるべきことなんじゃないかと思うようになっています。
仕事においても『愛』が最も重要な要素になってくるんじゃないかと思っています。
愛するという技術を高めていきます。
