今週の気づき PR

【今週の気づき/230】さみしさのなかにある強み

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ここ半年、ある学習プログラムを続けている。

そのプログラムでは、テキストに沿って設問に答えながら、「自分のありたい姿」や「現在地」、そして「ありたい姿に近づくためのアクション」などを書き出していく。すべてのアクションを取れているわけではないが、少しずつ「やったこと」、「できること」を増やしていくイメージだ。

ただ、やっていてイラッとすることもある。スラスラと答えられる問いもあれば、手が止まってしまう問いもある。とはいえ、手が止まる問いにイラッとするわけではない。思考を促す質問には一定の負荷がかかるけれど、イラッとまではしない。気持ちが良くないのは、「自分はこの問いの対象外なのではないか」と感じさせられるような問いに出会ったときだ。

例えば、設問の中に、「会社」や「家族」ということばが出てくることがある。場合によっては「配偶者」ということばが登場することもある。こういう問いに出会ったとき、自分のいまの状況(会社に属していない、ひとりで暮らしている)からすると、自分はこの問いの対象外なのではないかと思う。前提から外されているような、そもそも自分の存在が想定されていないような、そんな気持ちになる。

もちろん、設問をつくった側に悪意があるわけではないし、これはあくまでぼくが勝手に感じていることではある。それでもこの「対象外」のように感じる部分には、「自分はこのままこのプログラムを続けていても成長できないのではないか」「他にもっと自分にあったものがあるのではないか」といった疑問や不安に通じる何かがある。

言ってしまえば、「わかってもらえないさみしさ」があるのである。

日常にある「さみしさ」

この「わかってもらえないさみしさ」は、日常のあらゆるところに点在している。

それは、ぼくにとってはホームページから何かしら問い合わせるときの必須記入欄にある「会社名」だったり、ある人にとっては学生時代に関する質問だったり、またある人にとっては親に関する質問だったりする。なにかを訊こうとするとき、そこには何かしらの前提が存在する。しかし、その前提から自分が外れていると感じるとき、「わかってもらえていないさみしさ」のようなものが生じる。

「普通」とは違うところ

最近人と会っていて思うのは「普通の人なんていない」ということだ。

一見普通に見える人でも、話せば話すほどその人の変わったところ、変なところが見えてくる。いまは真面目に働いていそうな人でも若いころにはやんちゃしていたりする。見た目は普通でも、給料のほとんどを趣味につかっていたりする。その普通から外れたところ、変なところがおもしろいのだ。そのおもしろさに触れると「みんな普通じゃないんだよな」「普通な人っていないよな」と思ったりする。

誰しも、どこかしらおかしなところがある。普通から外れたところがあるし、胸を張って人に言えないことだってある。でもそれは話をしていると滲み出てくるその人のおもしろさであり、魅力でもある。

「さみしさ」は強みになる

だからこそ、自分が「普通」から外れていると感じる部分も、ひとつの特徴であり、おもしろさの一部だと思っていい。

日常のなかで「わかってもらえないさみしさ」を感じる瞬間がある。ときには、イラッとすることもある。

でも、その「わかってもらえないさみしさ」を感じるポイントこそ、自分の特異性であり、強みでもあるのかもしれない。

夜の松本城です。夜はライトアップされていて水面にお城が反射して見えます。