最近は毎週2時間の光学講座をやらせてもらっている。
2時間の講座の資料作成となると、それなりの量になる。講座は2時間ぼくがしゃべりっぱなしということはなく、受講者に問いかけることもあり、考えてもらう時間やワークをする時間もつくる。スライド枚数で言えば40枚前後になる。
自分のこだわり
文字だけのスライドは個人的には好まない。「文字だけなら口頭と同じじゃね?」という反抗心もあり、ぼくのスライドには図は必須である。その図も「わかりやすさ」を追求する。「視覚的にも馴染みやすく、ストーリーとしても受け取りやすく」を考えると、どうしても時間がかかる。自分のこだわりではあるが、なかなかに大変である。
これが月に1度くらいの作業であれば、自分のこだわりをたのしく表現していくことができる。一度つくってみては修正し、また見返してみてはスライドを入れ替える。こだわりをこだわりのまま、表現していくことができる。そして、受講者から「わかりやすかった」と言ってもらえたら、鼻高々である。
しかし、これが週に1度となるとそうもいかない。締切とこだわりがケンカし始めるのである。自分がつくるからには「わかりやすさ」という品質は落としたくない。それでも締切は存在する。もうとっくに「たのしい領域」は越えているのである。
たのしさを越えたところ
元プロ野球選手で、WBCでもキャプテンを務めた宮本慎也さんが、なにかのインタビューで「野球をたのしいと思ってやったことがない」と言っていた。もちろん、これはプロ野球という厳しい世界での話だと思うし、宮本さんも子供の頃に野球をやっていたときには「たのしい」から入ったのだと思う。このインタビューを観たときには「そうなんだ、大変なんだな~」と漠然と思っていたものだ。
きっとプロ野球ではぼくの想像できないくらいのプレッシャーが常にかかっていただろうと思う。これ以上ないくらいまで高めたスキルをさらに高めようと、目には見えないくらいの向上を求めて努力もされていたのだろう。それでも思い通りにいかないことのほうが多かったのかもしれない。
自分の上達が目に見えるときはたのしいし、自分の思ったような結果が出るときもたのしい。
けれど、たのしいを越えて、自分の上達が見えなくても上達しようとすることや、思うようにいかなくても続けることにその人自身の成長があり、たのしいの先を経験することで人格が磨かれる気がする。
成長過程
もちろん、ぼくとプロ野球選手では比較にならないけれど、たのしいを越えた状態にあるってことは、成長過程にいるってことなんですよね。たのしいことは大好きだけど、たのしいを越えたところにいる期間も人生の中では大切な時期と言えるかもしれません。
それでも、その状態をおもしろがるくらいの精神性は身につけたいものです。

