なぜだかわからないけれど、記憶に残っている場面がある。

就職活動中に、ある企業の説明会に参加した。その会社は車関係の会社だった。すごく車に興味を持っていたわけではなかったが、車には乗っているし、就職活動の一環として参加した説明会だった。

ホテルのような、広い宴会場のような、そんな会場だったと記憶している。広い会場の中には机がいくつも並べられ、就活中の学生たちはグループごとに机に座った。4人か6人のグループだったと思う。

グループワークのようなことをしたかもしれない。あるいはただグループで話し合うだけだったかもしれない。グループでなにをやったのか、どんなことを話したのかは記憶にない。しかし、企業説明会の最後、大型スクリーンで流れた映像と、そこに書かれていた一言が記憶に残っている。

その会社は高速道路のETCを開発していた。ETC開発に携わった、ひとりの開発者のコメントだったと思う。

「最初の車がETCをくぐったとき、涙が込み上げてきた」

とてもいいなと思った。涙が込み上げるほどの仕事ができるなんて、とてもいいなと。

いま、この記憶を思い返すことにどんな意味があるのだろうか。

涙が込み上げるような仕事をしたことは、新入社員のころの研修で、3ヶ月間グループのリーダーを務めたときのことだ。

研修の最終発表の質疑応答で、時間の使い方について改善点を聞かれた。ぼくは「わかりません。すべて必要な時間だったと思います」と答えた。失敗したと思った。けれどその後の講評の際、尊敬していた講師は「最高の答えじゃないですか」と言ってくれた。そのとき、涙が出た。

あの感覚を味わったのは、後にも先にも、あの3ヶ月間だけである。しかも正確に言えば、あれは研修であって、対価をもらってやった仕事ではない。だから胸を張って「仕事で涙した」とは、まだ言えない気がしている。

得たい体験とは

あの涙は、もう二度と味わえないものなのだろうか。自分は今後、涙するほどの仕事ができるのだろうか。

誰かに喜んでもらえると確信できるものをつくる。そのために仲間と「あーでもない」「こーでもない」と日々頭を悩ませる。やってみてダメなら改善し、それでも少しずつ、自分たちの目指すものに近づいている実感を得る。そして最後は、完成までこぎつける。

そして、自分たちの工夫やこだわり、そこに込めた意図まで、わかる人にわかってもらえる体験をする。ETCの涙も、研修の講評の涙も、思えばどちらも「自分たちがやったことの意味を、誰かが正確にわかってくれた」瞬間だった。

これができれば、喜んでいる自分の姿が目に浮かぶ。

そうか。そうなのか。

書きながら気づいたけれど、自分は壮大な「わかってもらえる体験」をしたいだけなのかもしれない。