【今週の気づき/282】やりたいからやるのだ
ぼくの実家はキリスト教である。
日曜日には教会に行っていたし、とても簡単なものだが、食事の前には家族でお祈りをしていた。このような背景だからか、神様というものはきっと存在し、いつもどこかで見ていて、いいことをすればいいことが返ってきて、わるいことをしたら罰が返ってくる。そう思っていた。
ぼくが住んでいたのは、昔ながらの昭和のマンションだった。道路に面した駐輪場は自転車で溢れている。それでは足りないのか、建物の内側にももう一か所あって、そこにもほとんど隙間なく自転車が置かれている。誰かが倒してしまったせいなのか、風のせいなのか、たまに将棋倒しのような状態になっている。
小学生だったころ、その将棋倒しになっていた自転車を直そうとした。将棋倒しの先頭から、一台一台、剥がすようにして起き上がらせていく。大人用の自転車は子どもにとっては大きく、それなりに重たい。
どうしてそうなったのか覚えていないが、何台目かの自転車を起き上がらせようとしたときに、足のスネをぶつけた。とても痛かった。それと同時に怒りが込み上げてきた。
「自分が倒したわけでもない自転車を直している。いいことをやっている。なのになんなんだ、この仕打ちは! 神様なんていないじゃないか!」
強烈にそう思ったことを覚えている。
やりたいからやる
自分で仕事をするようになり、「なんのために仕事をするのか」を自問する機会が増えたように思う。「誰のため、なんのため、なぜ」と。
世の中のため、あるいは身近な人のため、顔も名前も知っているあの人のため、あるいは未来を生きる子どもたちのため。
この問いに、最初は嬉々として答えていた。自分がやる仕事で世の中はよくなる。あの人を救えるはずだ。こんな困りごとを解決できるのかも。この仕事はすごいのだ。
高尚な答えは出てくるものの、なぜか結果がついてこない現実がある。あんなにいいことを言っていたのに、エネルギーがどこか湧いてこない。
「自分のためではなく、誰かのためだからこそエネルギーが湧く」
そう聞いていたし、自分でもそのように実感している。自分のためだけにがんばることは疲れる。人のため、誰かのためだからがんばれる自分がいる。なのに、どうして? となる。
その理由が、最近になってようやくわかってきた。そこに「自分」がいないのだ。
自分がやりたいからやるのだ。
なんのために開発チームをつくりたいのか。それは自分が楽しいと思うからだ。自分が充実すると思うからだ。お客さんの求める以上の成果を出し、それをメンバーと共に喜ぶ。それがしたいからだ。
それを「誰のため」ときれいにまとめようとすると「自分」がいなくなる。自分がいなくなると、押し付けがましくなる。
せっかくこんなにやっているのに。自分はこんなにがんばっているのに。なんでこんな仕打ちを受けるんだ。感謝の言葉があってもいいんじゃないか。認めてくれてもいいんじゃないか。
こんな考えが浮かんでくる。自分がいないから、何かしらの見返りを求めてしまう。
そうではない。自分がやりたいからやる。本当はとてもシンプルなことなのだ。
あのときのぼくも、「自転車を直したかった」のなら、神様を恨むことはなかったのかもしれない。
見返りは3億円
最近また、街のゴミ拾いをするようにしました。自分がやりたいからやっている、と思う一方で、誰かに褒められたい自分がいるのも感じています。なんなら暇を持て余したお金持ちが「このゴミを拾ったものに3億円をあげることにしていたのじゃ」と言ってくれることを期待しています。
宝くじよりも、こっちのほうが期待値は高いのだと信じたいです。

