たとえば、何かしらの研修を受けたとする。

それは自己啓発的なものかもしれないし、どこかスピリチュアルな空気を感じるものかもしれない。成功哲学や帝王学、あるいは世の中の原理原則を教えてくれるものだとする。

その内容を、その研修を、あるいは研修の主催者を、どこまで信じられるだろうか。信頼できるだろうか。

ぼくの場合、完全に信じるところまではいかないのが常である。

怪しいと思うものなら当然信じないが、たとえ相手にこちらを騙す意思が全く見られなくても、心の底から完全に信じ切ることはできない自分がいる。

「自分には当てはまらないかも」「そういう考え方もあるだろうね」「言ってることはわかるけど、本当?」

そんな考えが常にどこかにある。

一方で、同じ会場にいる人のなかには、「すっかり信じ切っているな」と見受けられる人もいる。

主催者を「先生」と呼び、「これで人生が本当に変わった」「いいことしかない」と語っている。

そのように聞くと「依存」を感じ、つい「いやいやいや」とちょっと距離を置きたくなる。でも、少しだけうらやましく思う自分もいる。信じ切っている人は、何かしらの結果を出している。「信じて進む」「疑いなく動く」という突破力があるからだ。その突破力、自分も欲しいと思う。

信頼と依存。この違いはなんだろうか。言葉としての印象はまったく異なるが、やっていることはすごく似ているのではないか。

信頼と依存

信頼とは信じて任せることだという。依存というのもある意味で信じて任せているのではないか。

信じるからこそ、疑う思考から解放される。任せるからこそ、自分は他のことに集中できる。

ぼくは依存はよくないと思うクセがある。

依存したら自由が減ると思っているし、依存することへの危うさを感じている。

思考停止に陥り、人生の大事なところのハンドルから手を離してしまっているように感じてしまうからだ。

一方で、医師の熊谷晋一郎さんの「自立とは依存先を増やすこと」という言葉もある。

そう考えると、信頼と依存は、思っていたほど遠いものではないのかもしれない。

なにかを信じて任せてみて、思うような結果にならなかったとき。

その結果まで相手のせいにしてしまうのなら、それは依存に近いのかもしれない。逆に、任せた結果を自分の選択として引き受けられるなら、それは信頼と呼べるのかもしれない。

そういう意味では、信頼と依存は、ある種の結果論なのだ。依存する前、信頼する前の「任せる」という入口自体は、どちらも同じなのだから。

ぼくは相手を信頼できないのではなく、実は「依存を恐れている」だけなのかもしれない。ぼくが次になにかを突破するには、思い切って「依存してみる」というチャレンジになる気がしている。

AIに依存

最近はAIを活用しまくっています。作業を自動化するプログラムや、設計作業を助けてくれるプログラムをつくっています。さらには、自分の活動について相談までして、AIの言うとおりに動き、うまくいかないときにはAIを責めまくっています。

人に依存する前に、すでにAIにどっぷりと依存している自分がいます。