【今週の気づき/280】自分はまだ反抗期だった
思い返すと、それはそれはひどい反抗期だった。
「うるせー」「別に」「知らねーよ」
なにを言われても、だいたいこの三つのどれかで返す。なにがあったのかは忘れたが、イライラをぶつけるように壁を殴ったこともある。中学二年ごろに始まった反抗期は、高校二年くらいまで続いたと思う。
両親は伸び伸びと育ててくれた。勉強しろと言われたことは一度もない。なにかを強制されたり、押さえつけられたりした記憶もない。なのに、あの頃のぼくは一体何に反抗していたのか。なぜあんなにも怒り、不機嫌な態度をとり、悪態をついていたのか。
ひとつだけ覚えているのは、「おれはこんなこともできちゃうんだぜ」というアピールである。
自分はいい子ではない。好青年でもなければ、優等生でもない。本当は悪態もつけるし、驚くような反抗的な態度もとれる。両親が思い描くような、できた子どもではない。
「こんなおれだけど大丈夫?」「おれってこんなに悪いところあるけど、それでもいいのか?」そんなことを伝えたかったのかもしれない。
自分で勝手に感じていたことではあるけれど、両親からの期待を感じ、目に見えない窮屈さがあった。その窮屈さを打ち破るために、両親の思い描く子ども像を壊す。そこに必死だった。ただひとつの救いは、「クソジジイ」「クソババア」とだけは言わなかったことだろうか。
自己開示のつもり
ぼくは、自分のことを「自己開示が上手」「本音を言える」と思っているフシがある。自分の弱さ、たとえば意地汚いところや、男同士での下ネタを話すことにも、人よりも抵抗がない。
先日も、目標達成のセミナーに参加したとき、「目標って嫌いなんですよね」と本音を隣の人に話した。しかも、主催者にも聞こえるくらいの声で、である。
そして今週、気がついた。これはきっと反抗である。
自己開示する、本音を言うという形をとりながら、本当は
「おれってこんなこと言えちゃう」「本当はこんな人間なんだ」「こんなのでも大丈夫?」
をやっている。
本当の自己開示なら、言ったあとに相手の反応を待つ必要はない。しかし自分は相手の反応を伺っているところがある。ならばそれは開示ではなく、反抗と言えるかもしれない。
まだ、反抗期だった
40代も越えて、すっかり反抗期は終わったと思っていた。もうあの頃は懐かしいだけで、反抗期なんて見えないくらい下の階にあり、自分は何階も上を歩いているとさえ思っていた。
しかし、まだ反抗期なのだ。あの中学生のころと本質は変わっていない。
悪態をついたり、怒鳴ったり、壁を殴ったりはしない。相手も両親ではない。変わったのは、反抗する相手が「両親の思い描くぼく」から「まわりが思い描くぼく」に入れ替わっただけだ。
もちろん、自分を開放したい。本音で話をしたい。弱い自分も開示したい。その気持ちは本物だと思う。しかし、それを両親にぶつけていたのと同じように、相手に「こんなおれでもいいよな?」と迫るのは反抗そのものである。
ああ、まだ自分は反抗期だったのか。
少し自分がわかった気がして、うれしい気持ちです。

