息子の学芸会が、あした開催される。
主役に名乗り出てから約1ヶ月半。いよいよ本番である。
主役になったものの、休日に練習しない息子を見てヤキモキしたこともある。練習させようとして喧嘩になったこともある。それでもここまで来た。
先生方の話だと息子は練習をがんばってやっているそうだ。練習中にトラブルで転んで頭を怪我したときも、気持ちを切り替えて練習していた。そのがんばっている姿を先生たちは承認してくれているのだろう。息子は「風邪を引いてもやりきる」と言っているそうだ。
とてもうれしく思う。
成長したとか、根性がついたとか、そういううれしさとは少し違う。いま感じるのは、息子がそれだけやりたいと思えることをやれている、ということに対するうれしさだ。
本番が、とにかく無事にうまくいくことを願う。終わったときに彼がいい顔をしている未来が実現してほしいと、心から思う。親というものは、子どもがうまくいくことを本人以上に願ってしまうし、もし失敗したら子ども以上に痛みを感じてしまうものなのだろう。
親の気持ちを想像する
さて、自分のときはどうだっただろうか。
たとえばぼくが高校の部活で夏の大会を迎えたとき、自分の両親はなにを感じていたのだろうか。
2年生のときは夏の大会でエラーをした。なんでもない外野フライを落球した。そのときに両親はどんなふうに感じていたのだろうか。ぼく以上に痛みを感じていたのだろうか。
人によってはその痛みに耐えられずに、自分の子どもを責めてしまう親もいるだろう。でも現場を見ていた父親は、特になにも言わずにいてくれた。自分が親になって初めて、あのときどんな気持ちだったのかが想像できるものである。
いまの立場で見えること
こういう話をすると、「その立場になってみないとわからないことがある」というふうに言ってみたくなる。
親には親の立場があるように、上司には上司の立場があり、社長には社長の立場がある。その立場になってみないとわからないものがあり、見えない景色がある。だから自分とは違う立場に立つその人を敬う必要があるのだと。
でも思うのは、その立場にはなってみなければわからず、想像しようもないのだとしたら、そんなことは立場が変わったときにはじめて、感じればいいことなのである。
結局はいまの自分で感じることしかできないし、見える景色はこれ以外にない。この景色のなかで、自分がやりたいことをやるしかないのである。それで十分だと思うのだ。
やりたいことをやる意味
ただそのときに「やりたいことをやっている」自分を、うれしく思ってくれている人はいる。自分以上に自分がうまくいくことを願っている人はいる。自分の痛みを自分以上に感じてくれている人がいる。
その人が生きているかどうかは関係ない。
自分がやりたいことをやっていい顔をしている。そんな状況をを自分以上に望んでいる人がいる。
これさえ信じられれば、あとはなんとかなる気もしてくるし、それが親孝行であるとも思うのだ。
※このコラムを書いているのは金曜日。土曜日に無事に息子の学芸会が開催されました。