『フェルマーの最終定理』という本がある。
いかにも小難しい内容が書いてありそうな題名である。
10年ほど前に、寝る前に読んでいればほどよく眠たくなるのではないかと思って買った本だ。題名に反して内容は読みやすく、数学の歴史を解説しながら数学とはどんな学問なのかをわかりやすく説明してくれていた。眠たくなるどころかとてもおもしろい本だった。
数学とはなにか。その本のなかでたとえ話としてこんなことが書いてあった。
天文学者、物理学者、数学者の3人がスコットランドを走る列車に乗っている。列車の車窓から平原が見える。その平原にいた1匹の黒い羊を見て、天文学者は言った。
「なんてこった!スコットランドの羊はみんな黒いのか」
それを聞いた物理学者は言った。
「違う違う。正しくは『スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いる』だ」
この会話を聞いていた数学者が言った。
「なにを言っているんだふたりとも。スコットランドには、少なくとも1つの平原が存在し、そこに1匹の羊がいて、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ」
このたとえ話は、天文学者と物理学者と数学者が、観察からどのように結論を導くかの違いをユーモラスに描写したものだ。
天文学は実験ができない。だから天文学者はひとつの現象を観測したとき、その現象が宇宙全体に適応できると考える。ピタゴラスの定理の場合、ひとつの直角三角形で法則が成り立つとわかれば、すべての直角三角形で成り立つと考える。
一方で物理学は実験により法則を導き出す。異なる条件でいくつかの実験をしたのち、その法則が正しいと考える。しかし無限には実験できない。ピタゴラスの定理で言えば、10種類の直角三角形で法則が成立したら、この法則は正しいとする。
しかし、天文学や物理学はその当時正しいとされていても、のちに覆ることがある。
たとえば、これ以上分けられない単位として考えられていた「原子」は、さらに陽子や中性子や電子に分けられることがわかったし、時間や空間が絶対のものとして扱われていたニュートン力学はのちに、相対性理論によって覆された。
数学は違う。100個の直角三角形で成立しても、5000個の直角三角形で成立しても、その法則が正しいとすることはできない。どんな直角三角形でも正しいと証明する必要があるのだ。
だから数学において、証明された定理は今後絶対に覆ることはない。むしろ絶対に覆されないと証明されたものだけが定理になる。数学とはそのくらい厳密な学問なのだ。
学生時代に数学は学んでいたものの、数学がそんなに厳密な学問だと知らなかった。数学とは天才たちが積み上げてきたものであり、それらは今後も崩れることはない。そしていまこのときも、さらに積み上げようとしている人達がいる。数学を見る目が変わったのを覚えている。
息子との会話
さて、話は変わって息子についてである。
何ヶ月前だったか、なんの会話だったか忘れたが、息子は、
「ぼくは、だらしないからさ」
と言ったことがある。
それを聞いたぼくは、
「だらしない“ときも”あるってことでしょ。そんなときは誰にだってあるよ」
と答えた。
息子は少し驚いたような顔をしたあとすぐに、とても安心したような表情になった。
数学者の視点を
電車で席を譲っている人を見たとき、その人を「いい人」だと思う。
会議で自分の主張を曲げない人を見て、その人を「頑固な人」だと思う。
ぼくたちは、ひとつの事象を見て、他人を「そのような人」として見てしまいがちだ。レッテル貼りだとか、単純化だとか言われるけれど、自然なことのようにも思える。
しかし問題なのは、同じようにひとつの事象から、自分を決めつけてしまうことだ。
人とうまく関われない自分がいて、自分は人と関わるのが苦手だと思う。
仕事がうまくいかないとき、自分は仕事ができないと思う。
場をしらけさせてしまったとき、自分はつまらないやつだと思う。
しかし人はそんなに単純ではないはずだ。
「つまらないやつ」なときもあれば、おもしろいことを言えるときもある。
臆病なときもあれば、勇気を出せるときもある。
バカな失敗をすることもあれば、なんて頭がいいんだと思うことだってある。
だらしないときもあれば、キビキビ動いているときもある。
頑固なときもあれば、ものわかりがいいときもある。
空気が読めないときもあれば、人に共感できるときもある。
どれも自分の一部なのだ。大切なのは自分を単純化しないことである。
落ち込みそうになったとき、数学者のような視点で自分を見つめてみる。
すると、情けない自分、できない自分、つまらない自分などは、絶対に証明できないと気づくはずである。
今週のいちまい
近所の公園にある銀杏の木の葉っぱがきれいな黄色をしていました。