【今週の気づき】とは、社内風土改革と称して勝手に始めた社内メルマガ(執筆は業務時間外)の内容を、社外秘を含まないよう一部加筆修正してブログ化したものです。
2021年元日。お年玉をもらって息子(小2)は泣いた。
うれし涙ではない。金額が少なくて悲しかったわけでもない。悔し涙だ。微笑ましいはずのお年玉の受け渡しで息子は悔し涙を流した。その姿を見て、僕は息子らしいと思いつつ、その気持ちを大切にしてほしいとも思った。
お年玉での出来事
息子は改まった行事が苦手だ。行事になるとどうしても照れてしまう。普段は「ありがとう」も「ごめんなさい」もスッと言える。しかし、人前に出て決まった挨拶をすることは苦手なのだ。
元日の昼頃、実家での集まりのなか、なんとなくの流れで、お年玉をもらうときは「あけましておめでとうございます」の挨拶と「今年頑張ること」を言わなければいけないことになった。子供が一人ずつ大人の前に行き、挨拶をして、お年玉をもらうという流れだ。
息子の番になったとき、なんとか照れながらも「あけましておめでとうございます」が言えた。そのあと、「勉強を頑張ります」と言った。
息子は勉強がそんなに得意ではない。ゲームの方が圧倒的に好きだ。きっと大人が求めている答えを言ったのだろう。お金がもらえるからと、自分の意に反して大人の求めに応じているようにも思えた。
その後、祖父(僕の実父)に声をかけられた。
「お願いがひとつあります。声をかけたときは返事をすると約束してほしい」
しかし息子は返事ができずにいた。そして「いやだと」泣きだしたのだ。
お金で作られる上下関係
お金を渡す者と受け取る者。この両者の間にはときに上下関係が生まれる。お金を受け取る者は、渡す者の喜ぶような答えをしなければならない。要求も受け入れなければならない。このような圧力が生じることがある。
もちろん、お年玉は上下関係を示すことが目的ではない。挨拶ができるようになってほしい。これをきっかけに何かを頑張ってほしい。大人にとってみればそのような思惑があったのだ。少なくとも僕はそう捉えていた。しかし、これは同時にお金で上下関係を作ることでもあった。
この一連のやり取りで生じた上下関係に、息子は悔し涙を流したのだろう。
「こんなことやらなければいけないなら、お年玉なんていらない」
とも言った。
お金よりも大事なもの
「お金のためにやりたくないことをやらなくてもいい」
泣いてすねまくっている息子に必死でそう伝えた。息子はもうお金の価値を知っている。お金があればおもちゃが買える、ゲームが買える、やりたいことができる。お金が大好きだ。でも、そのお金を拒否してまで、守りたいものがあったということだろう。息子の中に、お金よりも大事なものがあることが嬉しかった。
上下関係から離れる
世の中には暗に、お金で作られてしまう上下関係がいたるところにある。奢ることは気持ちの良いことだし、寄付したときも気分が良いもの。しかしこれらは、自分が上の立場になったという優越感の表れなのだろう。自分自身も、知らないうちにお金で作られる上下関係の中にいる。そして今回のお年玉のように無自覚のまま、「お金を払う側が偉い」と子供に伝えてしまっていることがある。
そうならないためにはどうすればいいのか。それはお金を払う側が「ありがとう」と言うことだろう。お年玉でも、奢る場合でも、寄付するときでも、「ありがとう」と付け加える。そうすることでお金が作る上下関係から距離を置くのだ。
考えてみれば、大人は子供からたくさんのものを提供してもらっている。日常にある喜びや笑い。子供と関わることによる学びと成長。生きる活力。これらを無償で届けてくれているのだ。
これらをお金で買えば、何十万円か、下手すれば何百万円とかかるのかもしれない。だったらせめてお年玉くらい「ありがとう」と言いながら渡したっていい。お金を払う側も、受け取る側も対等である。そう伝えるためにも、来年からはお年玉を「ありがとう」と言いながら渡したいと思う。
さて、息子のその後はどうなったかというと、泣き止んだあとはみんなの前に出て「なにも頑張りたくない」と宣言し、しっかりお年玉をもらうことに成功しました。
めでたしめでたし。