僕は期待が嫌いだ。
これはもう条件反射と言ってもいい。期待の裏に込められた「押し付け」や「制限」を察知して、不自由さを感じてしまう。だから期待からはなるべく離れるようにしている。数年前に読んだ『嫌われる勇気』の中にあった一文、
「あなたは誰かの期待に応えるために生きているのではない。同じように、他の誰かもあなたの期待に応えるために生きているのではない」
これを読んで深くうなずいたものだ。ずっとそう思っていたのだけど、「でも、やっぱり嬉しい期待もあるだろうな」なんてことも考え始めている。嬉しい期待と嫌な期待。その違いはなんだろうか。ということで、今週は「期待の種類」について考えてみた。
期待されること
今週、ある人の言葉を素直に 受け取れなかった。直接「期待」という言葉を使われなかったけど、言葉の裏にある期待を感じ取ってしまい、うまく受け取れなかったのだ。その言葉の意味することはポジティブなものであり、応援してもらえているとも思う。けど、本来の自分とは少し違うものを求められている気がして、窮屈さを感じてしまったのだ。やっぱり期待は苦手だ。そう思っていたのだけど、そう言えば嬉しい期待もあるじゃないかと思いなおした。
先週も書いたようにBFSの体験記を書くことだ。依頼されたのだから、そこに期待があったのだろうけど、この期待は嫌じゃない。むしろ喜ばしいし、やりがいを感じている。一体この違いはなんだろうか。
期待を分類
期待には大きく2種類あると思う。
1つ目は、あり方への期待。たとえば、リーダー、課長や部長、キャプテン、そんな立場に関係した、あり方への期待。つまり、理想のあり方を求められるものだ。また、大人として、社会人としてなど、直接誰かに言われなくても、空気感のようにされる期待もある。この期待は自分本来のあり方や、進みたい方向とのギャップを感じたとき、窮屈さを感じる。
2つ目は、アウトプットへの期待。たとえば、開発を成功させる、売り上げを上げる、大会で優勝する、など自分がやることへの期待。結果を求められるものだ。この期待は、自分の実力以上のものを求められると、重圧としてのしかかってくる。
理想像への期待、結果への期待。この2つを求められたとき、または求められていると感じてしまったとき、「息苦しさ」になるのだろう。そう考えてみると、『理想的な母親の役割』と『子育てへの結果』を常に求められることが、最近言われる母親像の息苦しさにつながっているかもしれない。
では、理想や結果の反対を考えてみるとどうだろう。理想像の反対は、そのままの自分、ありのままの自分、素の自分と言える。また、結果の反対は、過程とすることができるだろう。 素の自分であることや 取り組む過程に向き合う姿勢を求められたら どうだろうか。そのままの自分で、物事に向き合ってくれればいいという期待だ。
素のままで、精一杯取り組めば良い。理想像ではなく、素の相手を認める。結果ではなく、取り組む過程を信じる。これは言い換えれば信頼だ。僕はほとんどの期待が嫌いだけど、唯一、喜びを感じるのが、信頼とセットの期待だ。期待は信頼とセットになって はじめて、やりがいと 結びつく。信頼のない期待は、窮屈さや重圧で動きを鈍らせるだけなのだ。
(下の図は期待の種類を分類してみた)
期待の種類を意識する
自分では期待が嫌いだといいながら、自分も誰かに期待してしまっている。怒りや憤りを感じるとき、無意識に相手に期待しているのだろう。誰かに期待しているとき、その期待がどの種類なのか、理想を押し付けてないか、結果を求めていないか、自覚的でありたいと思う。