小学生くらいのころだっただろうか。
テレビで数年に1度放送される徳川埋蔵金発掘の番組を食い入るように見ていた。そのころのぼくは徳川埋蔵金なるものが噂されていることすら知らなかった。ただ、なにかすごい宝物が発見されるかもしれない、歴史に残る大発見がいままさに目の前で起こっているかもしれないと、目が離せずにいた。
一方で両親や兄たちは冷静だった。「結局こういうのって見つからないんだよね」とどこか冷めたことを言っている。
そんなことはない。だって今回は、なにか発見したって言っている。すごいものが見つかった雰囲気がプンプンしている。たしかにこれまでは見つからなかったかもしれない。でも今回は違うはずだ。だってこんなに騒いでいるし、もりあがっている。
しかし結局、そのテレビ番組のなかで徳川埋蔵金はおろか、なにか重要なものが発見されることはなかった。
宝とはなにか
「宝探し」、このことばを聞くとワクワクする。桃太郎でも、おむすびころりんでも、宝物が出てくる。宝を見つけ、手に入れたらうれしいものなのだ。しかし現実には、そう簡単に宝なんてものは落ちていないし、埋まっていることもない。
思い返すと、ぼくの勉強机にはよくわからないものがいろいろ置かれていた。どこかで拾ってきた白い石。友だちからもらった貝の化石。砂場で見つけたなにかの欠片。海で拾った貝殻。川で見つけたガラスの破片。そのときに「いい」と思ったものを集めていたのだ。
誰もが認める宝ではなかったけど、当時のぼくにとっては宝のようなものだったのだ。
本当の宝物
現実で見つけられるものは、せいぜい自分のなかでなにか意味を感じたものである。はたから見ればただの石ころだけどなにかの形に見えたもの。色の感じが好みだったもの。あるいは発見の過程に思い入れがあったもの。他の人にとってはガラクタだけど、自分にとってはなにか意味があると感じたもの。そういったものが宝物なのかもしれない。
宝とは自分にとって意味のあるものであり、自分にとって意味があれば十分なものなのだ。
書くとは宝探し
ぼくにとってこうやって書くことは「宝探し」のようなものなのだ。書くことによって当時の考えや感情を掘り起こすこともあれば、「あれとこれがつながっていたのか」と発見することもある。誰もが認める宝は見つからないかもしれないけれど、自分にとっての宝が見つかることもある。
書きたいことなんてそうそう見つからないし、実際、書くことなんて書き始める時点では見つからないけれど、とりあえず書いてみる。そのときに見つけるものが、皆が認める宝ではなく、自分だけの宝物だったりするんですよね。
宝物は自ら探しに行かないと見つからないように、文章もとりあえず書いてみると発見があるものです。