卒業ということばをよく耳にするようになったのは、いつ頃からだろう。
アイドルの芸能人がグループを脱退するとき、あるいは芸能界から引退するとき、「卒業」と言われるようになった。その頃からだろうか。
「卒業」が使われる場面
ぼくの身近なところで考えると、「卒業」とはやはり学生からの卒業である。小学校、中学校、高校、大学からの卒業。決められた期間が来たら訪れるものであり、自分の意志では決められない。卒業とは半ば強制的であり、これまで一緒に過ごした人たちとの別れの場面が思い浮かぶ。好むとも好まざるとにかかわらず、卒業とは向こうから来るものである。
また、自分の意志でする卒業もある。たとえば、ゲームを卒業する。パチンコを卒業する。お酒を卒業する。自分ではあまり好ましくないと捉えていることがらをやらなくなるときに使う。足を洗うとも表現できるような、自己の変化であり、どこか胸を張りたくなる、自分の意志を感じることができる「卒業」である。
あるいは子どもの成長としての卒業もある。「おかあさんといっしょ」を卒業する。プラレールを卒業する。仕上げ磨きから卒業する。成長の喜びを感じつつも、あの頃には戻れないという一抹のさみしさがある。
「卒業」には、成長、新しい自分、過去との決別のような、前向きな響きがあるなかで、同時に別れや不可逆な変化のさみしさがある。
なにから卒業したいのか
3年前に会社を辞めたこと。あれは卒業と言えるものだろうか。
長年感じ続けていた違和感や、自分の可能性を広げたいという思いが、最終的にこの決断につながった。やめたこと自体を卒業と言えるかはわからない。”卒業”と呼ぶには、まだ新たな道を確立できていないという思いがあるし、なにも実績を残せていないという感覚もある。
でもあの当時のぼくは、確かになにかから卒業したいと思っていた。それは会社への依存、くすぶっている自分、決めきれない自分からの卒業である。
そしていま、再就職を検討している自分は、なにから卒業したいと思っているのだろうか。
フリーランスになってみてわかったことのひとつは、商売の基本は商品を決めることだということだ。商品を決めるとはつまり、自分は何屋さんかを決めることである。ぼくは未だに自分が何屋さんなのかを決められずにいる。
いい加減にこの状態から脱したいと思っている。何者でもないこの時期から卒業したいと思っている。確かなのは、次のステージへの移行を強く意識していることだ。
卒業するために生きる
いまお話をいただいている企業に就職するのか、あるいはまだ個人として活動を続けるのか。この2週間で、少なくともこの迷いから卒業する必要がありそうです。
人はなにかから卒業し続けるために生きている。
そんな気がしている今日このごろです。