中学生のころ。
野球仲間と近所にあるバッティングセンターによく行っていた。バッティングセンターというのはたいていどこか昭和の匂いのする古びた佇まいであるが、そこも例にもれず想像通りの昔ながらのバッティングセンターである。ひとつ変わっていた特徴は、球速である。「最高150km/h」と表示されている打席がある。もちろん本当に150km/hの速度が出ているかはわからない。けれど、とにかく「速い」ことは確かだった。
150km/hの球を投げられる中学生なんて、まあいない。高校生でも全国にひとりいるかいないかの逸材である。実際に対戦することなんてまずない。それでも中学生だったぼくたちはその150km/hの打席に立ち、「はえー、はえー」と言いながら、空振りばかりしていた。
バットにかすりもしないことも多い。たまに当たっても打ち損じのファールになるくらいだ。練習になっていたのかどうかは、正直わからない。それでも、また150km/hのボックスに入る。それはなぜか。単純にたのしいからである。
カウンセリングのロールプレイ
今週、カウンセリングのロールプレイを体験した。ロールプレイ事例集のなかから題材をひとつ選び、クライアント役とカウンセラー役にわかれ、2人で対話をする。ぼくはカウンセラー役をやらせてもらった。
選んだ事例は、「部下の育成に悩む上司」である。「部下が組織に馴染もうとしない」「仕事もそこそこしかしない」「周りに良くない影響を与えている」そんな悩みを抱える上司へのカウンセリングである。
結果はと言うと、散々だった。「なにを聞いたらいいのかわからない」「どんな質問をしたらいいのだろう」「この考え方はよくないんじゃいか」「その行動はいい感じかも」
そんな思考が頭のなかをぐるぐると回る。
「うまくやろう」という欲が出たり、「これはいい、これはよくない」というジャッジする自分がいたり、「次はどういう手順だったっけ?」と相手の言葉よりも進め方を考えていたり。
やっぱり見ているのと実際にやるのは違う。いかに自分ができないかがよくわかった。しかし、これがまたたのしかったのである。
信じているからおもしろい
「できない」からつまらないものがある一方で、「できない」けどおもしろいと感じるものもある。この違いはなんだろうか。
それはできるようになる自分を信じているかどうかではないか。
できるようになった先に、なりたい自分がいる。その自分になりたい。きっとなれるはずだ。心のどこかでは「自分はそれをできるようになる」と信じている。
「これができるようになれば俺はあんなふうになれるのだ」「なりたい姿に近づくための道はこれか」「これを超えたら俺は…」
できないことを「できないまま」でいるとは思っていない。最終的にはできるようになると信じている。
だから「できないこと」がたのしくなってくるのである。
できないけどおもしろいもの探し
テレビで見ているときには150km/hを打つイメージができていても、実際に打席に立つとバットにすら当たらないもんですし、カウンセリングも見てる分にはできそうな気がしちゃいますが実際にやってみると全然できないものです。
それでも、「自分はいつかできるようになる」と信じていれば、たのしめる。
自分を信じる。できるようになると確信している。そう思えることはそう多くはないかもしれない。
でも、そんなときこそ、身の回りにある「できないけどおもしろい」というものを探してみるのもひとつの手かもしれません。

筑波山に行った。ロープウェイの駅にある風鈴がレトロな音を鳴らしていた。
