感動は共有するものか。それとも…。
夜の9時過ぎ。2階の部屋で窓を開けて仕事をしていると、外で草がゴソゴソ揺れる音がする。人がいるのか。人がいるにしても夜だし、ずっとゴソゴソさせているのは変だ。部屋の中から音の方に向けて懐中電灯で照らしてみるものの、音の正体はわからない。どうやら垣根の向こう側でなにかをやっているらしい。15分ほどずっとゴソゴソさせているが一向に姿が見えない。気味が悪い。
息子も呼んで一緒にしばらく見ていると、「フゴ!」という鳴き声が聞こえた。100%イノシシの鳴き声である。
イノシシだとわかって安心したのか、息子は再びテレビを見るために1階に戻っていった。
ぼくはまだ窓から外を照らしながら見ていると、子どものイノシシがひょっこりと姿を現した。「やっぱりイノシシだ」と思うが、まだゴソゴソという音は続いている。「ん?まだ他にもいるのか?」と思っていると、体長が車の横幅はあろうかというくらい大きなイノシシが一頭と、子どものイノシシが6~7頭くらい、家の前に出てきた。
懐中電灯で照らしていると、眩しいのかこちらを見ている。
ぼくは息子の名前を呼んだ。最初はイノシシを刺激しないよう少し控えめに。でも息子が上がってくる気配はない。徐々に少しずつ、大きな声で呼んだ。
息子が走ってくる音がする。「しーっ」と言いながら外を見て、一緒に家の前の道路を登って去っていくイノシシの家族を見る。
「見たよね!」「イノシシだよね!」「めちゃくちゃデカかったよね!」「下に見に行ってたらやばかったよね!」と息子と声を弾ませて会話をした。
悔しさの根源
息子と一緒に見れたうれしさはある。とても貴重な体験を共有できた喜びもある。でも同時に少しの悔しさもある。その悔しさとはなにか。
それは、
子どもイノシシが現れたときのかわいさ。親イノシシが現れたときの、「あのデカさは本当にイノシシなのか?」という混乱。「あれと対面したとしたら、、」と考えたときの恐怖。「やっぱりイノシシだ」とわかったときの少しの安堵。そして何より、近くで野生の大きなイノシシが見れたことの感動。
これらの感情の振れ幅をそのまま、まるっと息子と一緒に体験したかったのである。
感動の解放
人はなぜ、だれかと感動を共有したいと思うのか。
おいしいものを誰かと一緒に食べたいと思ったり、スポーツをパブリックビューイングで観戦したり、美しい景色を誰かと見に行ったり。
なぜひとりではなく、誰かと一緒に見たいのか。なぜひとりではだめなのか。
それは「感動を解放したい」からではないか。
同じものを見て、
「・・・だよね!」「ぜったいそうだよね!」「確かにおれら、見たよな!」と言い合うことで、自分の中に生じた感動は、たしかに存在したのだという確証が得られる。
それはもう疑いの余地がなく、その瞬間は確実にあったもの。あること、いること、そこにいたこと、それを見たこと。「めっちゃすごいよな!」「同じ体験をしたよな!」と、相手の感動が自分の感動を引き上げ、自分の感動もまた相手の感動を押し上げる。こうして、自分のなかでまだ確証の持てなかった感情が「100%の感動」になる。
誰かがいるから自分のなかの感動を開放できる。もしかしたらぼくらは感動を「共有」するだけではなく、感動を「解放」したいのではないかと思うのだ。
仕事での感動の解放
ぼくは仕事においても、この感動の解放を味わいたいのかもしれない。
「そうだよな!」「おれら、やったよな!」と声を合わせる瞬間。
やっぱり誰かと一緒になにかを成し遂げたいのは、この感動の解放はひとりではできないことを知っているからかもしれないですね。ひとりでは到達できない感動のレベルが、たしかに存在する。
ぼくもまた、誰かの感動の解放に一役買えるようになりたいと思います。

