気がつけばもう、12月である。
本当にもう12月なのか? と思うほどに11月の記憶は、ほとんどない。月日がすぎるのが早すぎるのだ。あせって手帳を見返してみると、やっていたことは確かにある。「ああ、たしかにこれやってたね」と安堵しつつも、このままでいいのかという疑問も頭をよぎる。このままだと、あっという間に歳をとってしまわないかという、疑問だ。
なりたかったもの
今週、偶然にも2人の方に同じような質問を受けた。それは、「なりたいと思っていたものはなんですか?」という質問だ。
ポイントは「子供の頃の夢」ではなく「なりたかったもの」ということだ。きっと子供の頃の夢という質問なら間髪いれずに「プロ野球選手」と答えていただろう。でも訊かれたのは夢ではなく、「なりたかったもの」だ。夢のような遠いものではなく、現実味をおびている「なりたかったもの」。そう考えたときにぼくから出た言葉は「発明家」だった。
高校生の頃か、大学生の頃だったから、記憶が定かではないけれど、「発明家っていいじゃんと」思っていたときがある。エジソンとか、ドクター中松とか。特許を取得して、不労所得で悠々自適に暮らせる。それってすごくいいじゃないか。
動機は不純であるが、これが自分のなりたいものだった。お金をもらえる手段はたくさんある。お金持ちになる手段だってきっとたくさんある。その中でも、発明家を選んだことにはなにか意味があるのだろう。
では、発明とはなにか。自分軸と他人軸にわけて考えると、発明とは新しいものをつくり(自分)、それを使った人たち(他人)が喜ぶことだ。ぼくは自分がなにかをつくっただけでは満足しないのだと思う。つくったものを見てもらったり触ってもらうだけでも、きっと満足しない。誰かに使ってもらってはじめて、「つくってよかったなあ」と思えるのだ。
ぼくは自分が作ったものを誰かに使ってほしいのだ。そして使った人に「これいいね」なんて言われたいのだ。
地続きの思考
毎日を忙しく動いていると、自分の目指すものが見えなくなってしまうことがある。あっという間に時間が過ぎ、「自分はいったいなにをやっているのだろう?」と自分が見えなくなる。
そんなときは、ひと昔前に「なりたかったものはなにか?」を自分に問いかけてみるといいかもしれない。子供の頃の夢という現実離れしたところから考えるのではなく、現実と地続きの「なりたかったもの」を考えるから見えてくるものがある。そのなかに、自分が向かいたい先のヒントがきっとある。
発明の道へ
ということで、来年のテーマは「発明」にしようと思う。世のなかを変えるような大きなモノではなくてもいい。もしかしたら車輪の再開発と言われることもあるかもしれない。それでも、なにかひとつでも、ふたつでも、つくる年にしますよ。
「これいいね」と喜んで使ってくれる人を想像しながら。
今週のいちまい
夕方の運転中、目の前の山がやたらと大きく感じた。あらためて、松本(安曇野)は山の中に街があるのだと実感しました。
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