息子との生活が1週間続いている。
スーパーに買い物に行くのに片道30分。往復で1時間はかかる山の中にふたりで暮らしている。息子はトカゲを飼うのだと、毎日のようにトカゲ探しをしている。素手で捕まえたり、ワナを仕掛けたりして、現在家にいるトカゲは合計4匹になった。虫かごや餌となるコオロギも急遽調達し、飼育の体制は万全である。
ここ数年、息子はトカゲのような爬虫類が大好きである。ここ静岡での暮らしは彼にとって理想的なのだろう。家から出たらすぐにトカゲがいる。家の中にはヤモリまでいる。買い物にも車で30分ほどで行ける。息子は「最高だね」と嬉しそうに言っている。
そんな息子に将来なりたいものを聞いてみると、「とくにない」と答える。曰く、大人は汚いものだと。政治やお金のことについて思うところがあるのだそうだ。「父ちゃんはきれいな方だと思う」と言ってくれたのは救いかもしれない。
親としては、子どもが夢やなりたいものを持ち、そのためにがんばっている姿を見ると安心する。だからこそ「夢を持ってほしい」と思ってしまう。しかし、よく考えてみれば、自分が子どものときになにか夢があったのかというとそんなこともない気がする。さらに言えば、今現在の自分が明確な目標を持っているかと言うとそれも自信がない。
つまり子どもに「夢を持て」と言うのは、結局は自分自身への要求なのかもしれない。
人と仲良くなりたいという欲求
最近思うのは、ぼくには「人と仲良くなりたい」という欲求が強いのかもしれない、ということだ。
たとえば選択理論心理学を学んでいるのも、表向きの理由は「人の成長を支援できるようになりたい」からだが、その裏側には「人と仲良くなりたい」という気持ちが隠れているのではないかと感じている。
学生時代には部活の仲間や気の合うクラスメイトがいた。しかし、おとなになってからは友人と呼べる人が身近にどれだけいるだろうか。おそらく少ない方ではないかと思う。
20代や30代のころは「人間って面倒くさい」「ひとりの方がラク」と思っていたが、今になってわかるのは、本当に面倒なのは、「人と接したときに生じる自分の中の感情」であるということだ。相手が面倒なのではなく、自分の感情を適切に引き受けられない自分自身が面倒なのだ。そこに気づけば、関係性は少しラクになる。
結局、相手に対して思うことはすべて、自分の感情の投影にすぎない。
だからこそ、息子に「夢を持て」と思わなくなったとき、それは自分自身がようやく明確な目標を持てたということなのかもしれない。

と書いているうちに5匹目を捕まえました。
