今週の気づき PR

【今週の気づき/157】後悔とはそのときの選択にあるのではなく

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「ちょっとひとつだけ観てみよう」

そう思って観たが最後、抜けられなくなるのである。なんのことか。アマゾンプライムビデオで配信されているアニメのことである。

もうすぐ、進撃の巨人のアニメが最終回を迎えるという。

ぼくは漫画版の進撃の巨人を途中まで読んでいた。コロナの始まりのころ、外出自粛になったときにメルカリでまとめて購入して読んだのだ。当時の最新刊である32巻くらいまで読んだだろうか。続きが気になっていたものの、最新刊が発売されるたびに購入することはなく、そのままになっていた。でもやはり、続きはどうなるのか、どんな終わり方をするのか、気になってはいた。

「そうか、最終回の配信がもうすぐなのか。であれば、観るのがたのしみだ。最近はあまりエンタメ的なたのしみを生活のなかに入れていない。やはり生活にたのしみが必要だ。この機会に観てみよう。ストーリーも忘れてきているし、中盤くらいからひとつだけ観てみるか」

そう思って観たが最後、1話20分で終われるわけもなく、結局18話くらい観てしまった。時間にして約6時間、気がついたら深夜の3時であった。

選べると思っているから後悔する

後悔したかと言えばしている。後悔しているのはアニメを観たことではなく、夜更かしをしたことだ。「ああ、やっちまった。次の日つらいだろうな」と思い、思った通り次の日の体調が思わしくない現実に、後悔しているのだ。

では後悔とはなんだろうか。どんなときに人は後悔するのだろうか。

たとえば、もしも後輩が会社で同じことをしていたらどう思うのだろうか。深夜3時までアニメを観ていて、体調が優れないと言ってきたら、どう思うのだろうか。きっと「社会人失格」のようなことを思うのだろう。口に出して言わなくても、それに近いことは感じるのだろう。

そう思うのは、「選べる」という前提があるからだ。観る、観ないの選択権が、その本人にあると思うからだ。

なぜ途中でやめない。次の日も仕事があるのになぜ寝ようとしない、と選べるはずのものを選ばなかったことに人を責める気持ちが出てくる。

そして後輩ではなく自分が同じことをやったとき、自分に対してもそう思うのだ。「なにやってんだお前」と、「もっと大切なことがあっただろう」と、自分を責めるのだ。

後悔とは、「選べたはずと思う」大切なものを選ばなかったときに自分を責める気持ちなのだ。つまり、後悔には「選べる」という前提があるのだ。

選ぶものは決まっている

一方でこうも思う。ではあのとき、本当に自分は途中でやめることができたのだろうか。

きっとやめることはできなかったのだろう。やめようとしても続きが気になってしまって眠りにつくことはできなかっただろう。アニメだって続きが気になるようにつくられているし、それが少し右手を動かしただけで続きが観れるのなら、観てしまうのだと思う。

依存症というものがある。よく言われるのは、依存症の人は決して意思が弱いのではない、ということだ。依存症とは、自分が行動を選べると思い込みながら、実際には選ぶことができない状態だと思う。こういうことはどんな人にでも、どんな場面でもありえるのだ。

その人の選択を、あるいは自分の選択を、責めてしまいそうになるけれど、本当は不可抗力で選べていないだけなのかもしれない。実は人は選べるように思えることも、選べていない可能性がある。

そのとき、その場面になる前に、選ぶものはもう決まっているということ。その人の得ている情報、経験、環境によってすでに選ぶものが決まっている気がするのだ。

つまり、後悔を減らすには、意思を強く持とうとするのではなく、なにかを選ぶまでの過程にある、情報や経験や環境を整えることのほうが有効だと思うのだ。

環境への投資

さて、ぼくは寝るのが大好きだけど、ついつい寝るのが後回しになってしまいます。これを改善するには、勝手に消灯されるシステムみたいな環境が必要かもしれません。後悔しないために環境づくりにお金をかける。コスパよりタイパ(タイムパフォーマンス)と言われる現代では、ここに需要がある気がします。


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