ぼくはいい暮らしがしたいと思っている。
広い庭付きの一戸建てに住み、天気の良い日には庭の芝生に水やりをする。まだ水が残る芝生にキャンプ用の椅子を出し、その椅子に座り本を読む。飼っているゴールデンレトリバーと息子が一緒に遊んでいる。パートナーは犬と遊ぶ息子を笑顔で眺めながら写真を撮っている。そのような暮らしである。
ただ一向にそこに向かえない。近づけていない。そんな焦りと不安がある。
不安の行き着く先
不安とは個人的なものである。自分がありたい姿を思い描き、それが得られない、あるいはいまあるものさえも無くなっていくと感じているのである。勝手に自分がつくり出したものだ。しかし不安をずっと抱え続けることは難しい。抱えきれなくなった不安を外に出さなくてはならない。だから不安は、身近な人や社会への不満に変わっていく。
不満とは、割に合っていないとか、やってられないとか、おればっかりがんばっているとか、わかってもらえないとか、そう思うことである。不安は個人で感じている内向きなものであるのに対して、不満とは自分以外のなにかへ向かった感情である。ベクトルが外向きになっているのである。
さらにその不満も抱えきれなくなったとき、今度は批判に移る。批判とは不満を発信することである。声に出したり、書いたりして、アウトプットすることなのである。
不安のまま出す
今週、ぼくは不満を抱えていて、批判したくなっている自分がいることに気がついた。いただいている仕事に対して、割に合わない、自分ばかりがんばっている、これじゃやってられない、と思っていた。そしてその不満を批判に変えようともしていた。そのことを、クライアントである社長さんとの対話で気づかされたのだ。
おとなとして、社会人として、あるいはできる人間と見られるために、不安は見せない方が良いし、不満は口に出さないほうがいいと思っている。それは、ぼく自身が不満を口にする人をあまり信用できないと思うからだろう。だからこそ自分は不満を口に出したくないし、それを乗り越えて仕事することがいいことだと思っている。美徳だとも思っている。
しかし、そうやって不満をためて、抱えきれなくなったときに一気に批判してしまったら、元も子もないのである。これはぼくの悪い癖である。
不安は、不安のまま口にするのがいい。不安を出すのは弱みを見せるようで抵抗があるけれど、不安を不安のまま出せるのがおとなというものかもしれない。少なくとも不満や批判を言う人はあまりおとなとは思えないのだ。そして、不安はこの先もきっとなくならないのだから、やっぱり不安は不安のまま出すのがいいのだろう。
稚さと
自分が子どもの頃、おとなとは堂々としているものかと思っていたけれど、そんなことはないのかもしれませんね。自分にのこる稚さとも向き合いつつ、精進したいと思います。
\『プロジェクトマネジメント代行』やってます/
商品開発プロジェクトのマネジメントを代行します。開発プロジェクトに関わって15年以上の私が、言語化と見える化で共通理解を築き、プロジェクトを前に進めていきます。