「べつにやらなくてもいいんだよ」
起き抜けに、クローゼットの横に取り付けた全身鏡に映った自分に、気がついたら声をかけていた。普段は起き抜けにその鏡を見ることはない。まして鏡に映った自分に声をかけることなんてない。でもそのときはなぜか声をかけていた「べつにやらなくてもいいんだよ」と。
考えてみれば、世の中やらなくていいことだらけである。究極的に言えば、いまの自分の仕事だって、やらなくても世の中は進んでいくし、無くてもみんな生きていける。やらなくてもいいものだ。
そんな考えがあったのかもしれない。このときぼくは、自分を半分あきらめたのである。しかし、あきらめた後すぐ、新しい道が見えてきた。そしてこの道がけっこういいんじゃないかというふうにも思えたのだ。
ということで今週は、「自分を半分あきらめる」についての気づきである。
商品づくり
最近は、新しいサービスを考えている。それは「パワポで簡単!自己紹介動画作成講座」という講座と、その自己紹介動画をさらにいいものにするための、サポートサービスである。言ってしまえばフロント商品とバック商品だ。
講座自体はほとんど完成している。そして、この講座は自分でもなかなかいいものができたんじゃないかと思っている。問題はそのあとだ。自己紹介動画をさらにいいものにするためのサービス。どこに出しても恥ずかしくないもの、お客さんの代わりに勝手に営業してくれるもの、これを作りたい。けれど、作り上げるために、自分はなにをすればいいのか、具体的にどう動けばいいのか。ここに悩んでいた。
果たしてクオリティーの良いものがつくれるだろうか。この価格で満足してもらえるだろうか。まだ売ってもないし、買ってもらってもないけれど、「どうしようか」「どうすれば」が頭の中を占めていた。
そうこうしているうちに、出てきたのが冒頭のセリフだ。
「べつにやらなくてもいいんだよ」
と。
そして、ふと気持ちが軽くなり、別の方向に思考が進みだしたのだ。
「そっか、確かにやらなくていいか」
「まあでもせっかくだから、あの人にやってもらうのはどうか」
「ああ、それだったら彼もいいな」
「あの人も呼んじゃったらもっと良くなるかも」
自分を半分あきらめ、自分でやることを手放したら、人に力を借りるという道が見えてきたのだ。自分を半分あきらめることはなにかを手放すことだ。そうやって手放すことで生まれた隙間に新しい考えが入って来たのだろう。
天国と地獄の違い
天国と地獄の違いについての話がある。大きな釜の中にうどんが入っていて、釜のうどんを長い箸を使って食べるという話だ。状況は天国も地獄も変わらないのだけど、天国の人々はお腹を満たし、地獄の人々は飢えている。では、天国と地獄の違いは何かというと、うどんを他人に食べさせようとするか、自分で食べようとするかだ。地獄では、うどんを自分で食べようとするが、長い箸ではなかなか食べられない。一方で天国はうどんを向かい側の人に食べてもらおうとして、お互いが楽に食べられる、というものだ。
ぼくが半分あきらめたものは、きっとうどんを自分で食べることなのだ。うどんというのはもちろん比喩であり、実際には利益であったり、称賛であったり、羨望であったり、そういう類のものだろう。自分がほとんど無意識で求めていたそれらを諦めたのだ。自分を半分あきらめるというのは、自分の欲しいものを、自分で取ることをあきらめることなのだ。
うどんを食べてもらう
とにもかくにも、自分を半分あきらめて、協力を得たいと思い、今回お声がけした人達が組み合わされば、すごくいいものができると思えるんですよね。少なくともぼくがひとりでやるよりはずっとずっといいものができる。
まだサービスはできてないし、売れてもいないし、販売まで行けるかどうかもわからないけれど、この「うどんを食べてもらうという感覚」は、忘れずに持っておきたいものです。
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