「限界までがんばったほうがいいんじゃない?」
息子から言われた言葉である。一緒に行ったスーパーでレジ待ちをしていたとき、息子に相談したときのことだ。相談内容とは、ぼくがフリーランスを続けるかどこかの会社に所属するか悩んでいるというものだ。
「なんでそう思うの?」と聞くと、
「あのときもっとやっておけばよかったと思わないように」
と答えが返ってきた。
息子はこの春で小6になった。最近は会うとなにかと「ちんこ」ばかり言っていた。
たとえば「5年生はどうだったん?」と聞くと、「じゃあ、父ちゃんのちんこをパンチしていいってことねー」と返ってくる。会話がまったく成り立っていない。
そんな息子からの思いも寄らない返答に、「おおん」となり「たしかに」と言うことしかできなかった。どこで聞いたのか、なにかのセリフであったのかわからないけど、成長してくれている。立派になったものだ。
「あのときもっと」
これまでの人生を振り返り、「あのときもっとやっておけばよかった」と思うものは、どんなものがあるだろう。
たとえば、高校の部活。部活を引退した直後は「もっとやれることがあった」みたいなことを思うことはあった(いまはあまりそう思わないけど)。トレーニングにしても、練習に対する姿勢でも、自宅での過ごし方でも、振り返ってみればやれることはもっとあっただろう。
たとえば、会社生活。よくやっていたなという時期もあるし、もう少しやれたと思う時期もある。よくやっていたと思うのは、入社以降6年ほど、毎朝1時間早く出社して勉強していたこと。もっとやれたと思うのは(当時できたかは置いといて)、自分が考える新商品を無理やりにでもつくって市場調査までしてしまうことだ。
バカをやる
「あのときもっと」と思うことがなくなることはきっとない。それは、その当時と現在では経験値や周囲の環境が異なるからだ。経験不足で見えていなかった部分もあるし、どうしたって当時の常識の枠の中にとらわれていた。その部分はゼロにはできないだろう。
けれど振り返ってみて「よくやっていた」と思うのは、当時の少ない経験値のなかでも、すこしだけ常識の枠(自分の枠)を超えたことをやっていたときである。「あのころバカだったなあ」と思うことのほとんどは、「バカだけどよくやっていたなあ」と思うものである。
「あのときもっとやっておけばよかった」と思わないためには、挑戦のなかで(あるいはバカをやるなかで)、一生懸命に生きることなのだろう。
セイントフック
息子には「セイントフック」という技を教えてあげました。これはぼくが小学生のころに近所のお兄ちゃんから教えてもらった技です。それ以来息子からは、隙あらばセイントフックをされています。
\『プロジェクトマネジメント代行』やってます/
商品開発プロジェクトのマネジメントを代行します。開発プロジェクトに関わって15年以上の私が、言語化と見える化で共通理解を築き、プロジェクトを前に進めていきます。