「もっとこうすればよかった」
と思うことがある。悔しさに似たこの感情はあまり気持ちよくないものだ。しかし、この「もっとこうすればよかった」を味わうからこそ得られるものがある。今週は「悔しさという収穫」についての気づきである。
「こうすればよかった」
2/10に執り行った父の葬儀では、参列していただいた方々の前ですこしお話をする機会があった。そこで父との思い出を語ったのだけど、途中で泣いてしまった。本当はもうひとつエピソードを言おうかとも思っていたのだけど、その話をするともっと泣いてしまいそうで、なんなら話ができないくらい泣いてしまいそうで、やめてしまった。
でもあとから考えて、やっぱりそれでも話をしたほうがよかったと思うようになった。ぼくは父のことをみんなに知ってほしかったし、参列してくれた方々もきっと父のことをもっと知りたかったと思う。だから話せばよかったと思っている。
また、先週にはあるセミナーにアシスタントとして参加させていただいた。3日間あるセミナーの最初に、アシスタントに入る人たちがひとこと話をする場面があった。ひとりずつ挨拶をしていき、ぼくの番になったとき出だしの「おはようございます」を思いっきり噛んでしまった。焦ることなく言い直したのだけど、少し落ち着いてから考え直すと、噛んだことを自分でいじればよかったと思っている。場が和むチャンスだったかもしれないと、チャンスを逃してしまったと、悔しい気持ちが湧いてきた。
悔しさという収穫
「あれを言えばよかった」
「こうすればよかった」
と、生きていれば思うことがある。強い後悔とまではいかなくても、悔しさや悔いが残ることがある。もう1回やったらもっと上手にできるのに。もう1度やったらもっといい感じでできたのに、と思うからこそ、悔しさは湧いてくるし、自分の力不足を実感してしまう。その感情は決して気持ちのいいものではない。できれば味わいたくはないものかもしれない。
しかし、ここにこそ成長の種があるのだと思う。
いつもと違う行動をしたとき、新しいことに挑戦したとき、「もっとこうすればよかった」と思うことがある。悔やむ気持ちが出てくるが、むしろそれがいい。
「もっとこうすればよかった」は具体的でわかりやすい伸びしろであり、「もっとこうすればよかった」を集めるために挑戦するのだ。
挑戦して得た悔しさは、収穫であり、つぎへと自分を駆り立てる原動力なのだ。
母の収穫
配布資料を作り、原稿までつくって葬儀に臨んだ母でさえも「あの話もすればよかった」と言っています。でもそれは、やってみたからわかったこと、わかることなんですよね。
そんな母は「もっとお父さんのことを知ってほしい」と執筆をはじめております。すぐに行動に移す母に、強さを感じております。
[ちなみに、言えなかったエピソードは、前回ここで書いた「信は野球をがんばってます」のものです]
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