たとえば、少し高い靴を買ったとする。
革靴で、見た目にかっこいいし、履いたら気分もあがる。しかしその靴を履いて歩いていると、足が傷んでくる。そのまま歩いていると靴ずれで足の皮がめくれてしまう。最初だけだと我慢して履いていても状況は変わらない。いつの間にかその靴を履かなくなってしまう。
たとえば、ベッドのマットレス。あるアスリートが使っている、眠りの質が良くなる、日常のパフォーマンスが違ってくる。そのかわり値段も高い。お店で横になってみても悪くなさそう。思い切って買ってみる。しかし、いざ睡眠をとるとどうにも体に合わない。翌日の朝、腰が痛む。身体がすっきりしない。高かったのだから慣れるまではと、しばらく使ってみるが、やがてそのマットレスを使わなくなる。
買い物を失敗したときに、ぼくは自己嫌悪に陥ることがある。なぜあんなものを買ってしまったのか。他のことに使えばよかった。お金を無駄にしてしまった。そう思い落ち込むのである。
勉強代
お金の失敗をしたとき、救いの言葉として「少し高い勉強代だと思えばいい」というものがある。
この言葉はなぜ救いとなるのだろうか。
それは、「しょうがない」というなぐさめだけではなく、「得たいもの、ほしい結果に少しでも近づけた」というニュアンスがあるからだろう。
お金を無駄にしたと思うのは、お金を払っても欲しい結果が得られなかったからだろう。かっこいい靴を履いたイケてる自分を得られなかった。ぐっすり眠ってスッキリ起きることを期待したけど得られなかった。だから無駄にしたと思うのだ。
しかし、それは「今すぐに」は得られなかったかもしれないが、「欲しいものに近づけた」と考えることはできる。あるいは「この道ではない」とわかったと捉えることはできる。この経験を学びとし、成長すれば、その先に欲しいものはいつか手に入るかもしれない。いやきっと手に入る。「勉強代」は、そう思える言葉なのである。
欲しいものやほしい結果は人それぞれ違うから、必要な学びも人それぞれ違う。他の人にとっては無駄だとしても、いまの自分にとっては必要な出費であり、必要な経験だったということなのだ。
時間の勉強代
現代では、お金よりも時間の価値が高まっていると言われる。お金を無駄にしたと思うより、時間を無駄にしたと思うことのほうが増えている。
SNS、動画、ゲーム。
最近、夜な夜なFacebookのリールというショート動画をつい見てしまっている自分がいます。時間を無駄にしたと落ち込むことはあるけれど、それを勉強代と捉えてどう次につなげていくかを考えればいいんですよね。
時間の使い方で大事なのは、「今この瞬間」に少しでもなりたい自分に近づく行動を選択し続けること。
お金も時間も、使い方の難しさを感じる今日このごろです。日々勉強ですね。
今週の一枚
出発する飛行機が滑走路に向かうとき、手を振ってくれる人がたくさんいます。
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