人からどう思われているのか。どう見られているのか。これをまったく気にしないという人も少ないのではないか。たとえば僕の場合は、「すごいと思われたい」「できるやつだと思われたい」そんなふうに思い、行動していることがよくある。
するとどうなるのか。自分よりもできそうな人が目の前に現れたとき、自分よりも人間的に魅力を感じる人が現れたとき、戦ってしまうのだ。もちろん喧嘩をふっかけるわけではない。心のなかでその人に対抗意識を抱いた状態で、周囲と接してしまう。「俺だってこんなことできるよ」「俺はこんなことわかってるよ」と。そしてその対抗意識はほとんどの場合、まわりに伝わっている。
他人の印象から見えること
今週、ある人に「あなたは自分の優秀さを証明することに力を使っているように見える」と言われた。また「そこに力を使っているのはもったいない」とも。
そう言われたのは、相手に抱いた印象を正直に話すという場であったけれど、ほとんど初対面だったその人にも、自分の内面は伝わっていたのだ。自分をよく見せようとする言動をとる自覚はあったものの、「そんなに伝わるものなのか」という驚きとともに、「まあ、そりゃあ伝わるよね」という納得もある。
よく見せようとすること自体は悪いことではない。「よく見せたい」と思う自分も、「褒められたい」と思う自分も、それはそれでかわいいやつだとも思う。けれど、それにしても「そんなに肩肘張らなくてもいいよね」と、「他のことにエネルギーを使ったほうがいいよね」と、スッキリもした。
どんな世界をつくるのか
自分に向けていたエネルギーを他に使う。そう考えたときに、最初に思ったのが「子供が生きやすい世界をつくる」だ。ここで言う子供とは、世界中の子供たちという崇高なものではなく、自分の子供、つまり息子のことである。こだわりが強く、個性いっぱいの彼が成長して大人になったとき、生きやすい世界で笑っていてほしいと、そう思ったのだ。生きやすい世界とはなにか。それは、「自分の素質を生かして活躍している」世界であり、もっと具体的に言えば「自分の仕事を自分でつくりだす」ことが自然にできる世界である。
僕自身、自分の仕事をつくるために会社を辞めたものの、自分のスキルや個性をどう社会に生かすのかわかっていない。どう仕事をつくっていくのか、自分のスキルが誰の困りごとを解決できるのか。ここに難しさのポイントがあり、そこを変えていきたい。
個々人が自分の素質を見いだし、その素質を磨き、自分のやり方で社会の役にたてている世界。既存の社会システムに馴染めない人たちが、会社や組織に縛られることなく、同じ未来をめざす仲間と困難に立ち向かえる世界。
そんな世界をつくりたいのだ。
目の前のことをやっていく
「自分の素質を生かして活躍する世界」や「自分の仕事を自分でつくり出す世界」なんて、自分につくれるのだろうかと尻込みしてしまう気持ちもあるけど、結局は目の前のことをコツコツとやっていくしかないのだろうなあ。
まずは目の前のことを、思いついたことを、ひるまずにやっていく。子供の素質を育てる支援もするし、僕自身も自分の仕事をつくっていく。
「父ちゃんで大丈夫だったんだから、君だって大丈夫だ」
なんて子供に言うのが目標である。