根拠のない自信。
という言葉がある。「あいつの自信には根拠がない」だとか、「自信過剰」だとか、あまりいい意味で使われない言葉という印象がある。しかし、そもそも自信に根拠など必要なのだろうか。むしろ、自信には根拠などないほうがいいのではないか。今週はそう思える出来事があった。
ということで今週は、「自信の源」についての気づきである。
小さくても手応えのある収穫
今週、精密鈑金会社を訪問した。社長さんとハローワーク経由でつながり、雇用される意思はないことをお伝えしたものの、会ってくださると言っていただけたため面会にうかがったのだ。
工場見学をさせていただき、その後お話しをした。会社の困りごとと、自分のできることの重なる領域を探ってみたものの、それ自体はうまくいかなかった。しかし、それでも収穫はあった。それは、堂々と立ち振る舞えている自分がいたことだ。
会社を辞めてからというもの、ぼくは自信を失っていた。結局ひとりではなにもできない。社会の役に立ててない。自分の小ささを感じて、すっかり自信をなくしていた。そしてそれが、自分の言動に現れていることも自覚していた。
しかし、今回は、ハッタリをかますでもなく、自分を大きく見せようとするのでもなく、堂々と応対する自分がいた。その最大の要因は、最近始めた習慣の効果だろう。
その習慣を恥ずかしげもなく言うと、「自分はすごいんだ」と1日100回、声に出して言うことだ。
はじめたきっかけは、斎藤一人さんの著書『成功力』のなかに書いてあったことだ。1日100回、「自分はすごいんだ」と声に出す。これを21日間続けてみる。すると自分のまわりに良い変化が訪れるのだという。これを実践しているのだ。
自信が先、根拠はあと
会社を辞めてみて感じるのは、「自信」は何よりも大事だということだ。自信がなさそうに見えれば信用されないし、自信があるからこそ新しいことにも挑戦や冒険ができる。自信の有無で信用や自分の行動が変わるのだ。
会社にいたときには、肩書きや名誉や実績が自信につながっていた。仕事を進めていくなかで、自分の能力を認識してもらっていたし、得意分野もハッキリとしていた。認知されることが、自信にもなっていた。しかし、これらが通用しない場所では、自信の根拠となるものがまるでない。自分が知られていない場所に行けば、自信そのものを失ってしまうのだ。
自分のいる場所が変わると、自信の有無も変わってしまう。そんな簡単に崩れてしまうものが、ほんとうの自信と言えるのだろうか。ならばどうすれば、ほんとうの自信と言えるのか。根拠があるから「自分はすごい」と思うのではなく、「自分はすごい」と思うから根拠が見えてくる。きっとこの順番が正しいのだろう。はじめに自分はすごいという起点に立てること。これがほんとうの自信なのだと思う。
自分はすごいと思い込むこと。そのために、なんどでも自分に言い聞かせること。すごいと思うことに根拠はいらない。根拠はあとからついてくるのだ。
苦しさのなかで試す
会社にいたら、こんなことを考えたり、実践したりしなかったのだろうなあ。今は苦しい時期だけれど、その苦しみのなかにいるからこそ気づくこともある。試せることもある。たぶん、成長もしている。
きっと何十年後か、または死ぬまえくらいには、「あの時期があったから今の自分がある」なんて思えているのだろう。そんな年老いた自分の姿が想像できれば、この道は間違いではないのだと確信もできる。
だから、こういう苦しさも人生を豊かにするためには必要なのだと思う。ただ、そうは言っても苦しさからはなるべく早く、抜け出したいとは思うけどね。