自覚したのは、大学生のころだった。
期末試験。出題される問題について、友人に「ここが出そう」と話したところ、本当に出題され、驚かれたことがあった。
「どうしてそんなことがわかるのか?」「なぜなんだ?」と不思議がられたけれど、特別なことをしたわけではない。過去問から出題傾向を分析したわけでもないし、頻出度調査なんてこともしていない。授業中の教授の言動からなんとなく、「ここを伝えたそうだったから、たぶん出題される」なんて予想しただけだ。
テスト問題を予想できたのは、小学生のころからだったと思う。「あれ、ちょっと強調したかも」「あれ、なんか言い方が変わったな」「あ、2回言った」と、先生の言動から、「きっとここを伝えたいんだろうな」と読み取って、「大事っぽいからきっとここが出題されるんだろうな」などと考えていたのだ。
ぼくとしては、「なんでわかるの?」と聞かれても、「だっていかにもテストに出しそうだったじゃん」みたいにしか思ってなく「ああ、意外とみんな観てないんだな」なんて感じていた。
きっとこれは、性格や、育った環境に関係しているのだろう。ぼくは自分から積極的に話をする方ではない。自分の話をするよりも、人の話を聞く時間のほうが圧倒的に長い。また、3人兄弟の末っ子として生まれ、小さい頃から大人の顔色をうかがう癖があった。「ああ、そういうことしたら怒られるのか」「きっとこんなことしたら褒められるだろう」、そう考えていた記憶もある。
そういった、性格や育った環境が、人をよく観察することに影響しているのだろう。
仕事で活きること
最近仕事をしているなかで、「感動した」と言ってもらえることが何度かあった。
社長の社員への想いを言語化したとき。企業の新商品開発への想いをまとめたとき、「言葉にしていないことまで言語化してもらえて感動した」と言ってもらえた。
共通するのは、「この人が(こと人たちが)大切にしていることは、きっとこれなんだろうな」というように想いを言語化しているということだ。その人たちの考えや想いを想像し、たとえ外れていたとしても直してくれるだろうという軽い気持ちで代弁してみたのだ。そして、ぼくが代弁した言葉を受けとった人は、ぼくの想像以上に喜んでくれた。
ぼくは文章のプロでもない。きれいな言葉を綴れるわけでもない。それでも喜んでもらえるのは、「テストに出そうなところを予想するのと同じ能力」によって、相手が伝えたい大事なことを読み取ろうとするからだろう。
ずっと忘れるくらい、価値のない能力だと思っていたことが、いまになって自分の“売り”のようなものになってきている。
名前のある能力と名前のない能力
社会で求められる能力が語られることがある。たいていの場合、それらは論理的思考力、コミュニケーション能力、課題発見力、みたいにわかりやすく名前がつけられている。「論理的思考力がないとやっていけない」「結局、コミュニケーション能力が一番だ」「今の時代は問題解決力より課題発見力だ」と語られると、「やっぱりそうだよねえ」「身につけないと、まずいよねえ」と思い、名前のついていない自分の能力なんて忘れてしまう。
でも、本当に大切なものは、名前のつけられていない能力なのだ。自分という唯一無二の人間を活かすのに必要なのは、忘れてしまうような、名前もない能力なのだ。
名前のない能力は当然、相手の期待する範疇には入らない。求められるもの、期待されるものは名前のつけられた能力だ。だけど、だからこそ、期待されないからこそ、名前のない能力が発揮されたとき、相手の期待を上回り「感動」が生まれるのだろう。期待値が低く、比べられることも少ない能力だから、自分が活きるのだ。
名前のない能力こそ“売り”になる
「名前のない能力」は誰にでもあるはずだ。「どんな子供だった?」と聞かれて、性格や好きなことを一通り答えたあと、「そういえば」と思い出すような些細な出来事のひとつやふたつ、あるはずだ。
なぜか答えがわからないのに手を挙げられるとか。なぜか自分がつけたアダ名が採用されやすいとか。なぜか教科書の誤字に気がつきやすいとか。
そんな、名前のない能力こそ、“売り”になる。自分にしか出せない特徴になる。
個人事業とは、自分だけの「名前のない能力」に、光をあてる道なのだ。
今週のいちまい
松本ではホタルの季節です。この時期の夜の散歩は涼めて気持ちがよく、ホタルまで見れるので落ち着きますね。川の音もいいです。
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