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【今週の気づき/150】やる”べき”こととはなにか

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「べき論」が苦手である。

父親は厳格であるべき。
社会人は日経新聞を読むべき。
子どもは大人の言うことを聞くべき。

ぼくはある時期から、こういう「べき論」からは距離を置いている。自分でも「べき」の使用を極力避けてきたし、「べき」を言う人とも距離を置いてきた。「べき論」には相手の自主性や選択の自由を尊重していないと感じるし、新しい視点や考え方を探求する余白も感じない。べき論の先には幸せがないように思える。

しかし最近、社長さんと話をするなかで「つくるべきもの」だったり「やるべきこと」のような「べき」を聞く機会が何度かあったにもかかわらず、その話を聞いていて特に嫌な感じはしなかった。むしろ、「たしかにその通りだな」とさえ思えた。「べき論」と距離をおきたいと思っているぼくが、社長さんの言う「べき」に共感したのはなぜだろうか。

守りたいものがある「べき論」

ぼくは口に出して「べき」を使うことはほとんどないものの、無意識に「べき」と思っていることはいくつもある。たとえば、歯みがきはするべきだし、お風呂に入るべきだし、洗濯物はたたむべきだし、外に出る時には身なりを整えるべきだと思っている。仕事だってするべきだと思っている。

そう思う理由は自分の生活を維持する上で、必要なことだと思っているからだろう。これらをやめてしまったら、きっと生活が成り立たなくなってしまう。守りたいもののために、やるべきだと無意識のうちに思っているのだ。そしてこれらは、自分で認識して自分で動いており、誰かから「やるべき」と言われているわけではない。自分で決めて自分でやっていることだから、「べき」と思っても窮屈さはない。

行きたい場所がある「べき論」

一方で、仕事の上で語られる「べき」はどうだろう。「つくるべきものをつくる」「やるべきことをやる」と上司に言われたときはどうだろう。そこに窮屈さを感じるだろうか。感じないとしたら、それはどんなときだろうか。

「べき論」を語るとき、そこに不快さを感じるかどうかをわけるものは「行きたい場所が共通認識されているか」ではないだろうか。「行きたい場所」とはつまり、目標だったりビジョンだったり、そういったもののことだ。

ぼくは弱小高校ではあったものの、高校野球をがんばっていた。「一日千スイング」と決めてひたすら素振りしていた時期もあった。なぜあの頃はあんなにがんばれたのだろうか。ぼくにとって素振りはたのしくないものだったが、予選で勝ち抜いて喜びたいというビジョンがある。打率トップになりたいという目標がある。そうなってはじめて、素振りがやるべきことになる。

会社でもビジョンが示されているから、やるべきことが見えてくる。プロジェクトでも目的と目標があるから、つくるべきものが浮かび上がってくる。行きたい場所に納得できるから、やるべきことに向かい合える。

守りたいもののためにやること。行きたい場所のためにやること。これらがやるべきことであり、「べき」とはこれらが示されてはじめて語っていい言葉なのだ。

「べき」とは方法

「べき論」とは結局のところ方法論なんですよね。行きたい場所に行くための方法として「自分はこれがいいと思います」が「これをやるべき」となるわけです。

ここまで書いてみて「べき論」に対する拒否反応はなくなったものの、やっぱりぼくは「べき」ではなく「こう思う」と言いたいかな。

議論の出発点や、わかりやすい目標として「これをつくるべき」と使うくらいはいいけどね。


今週のいちまい

出張で飛行機をつかった。飛行機は見ていて飽きないですよね。


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