月に1回の神戸出張で飛行機を使う。
松本から神戸まで、飛行機を使いクライアントである企業さんを訪問する。電車で行けば4時間かかるところが、飛行機だと1時間で到着する。空港までの移動や搭乗手続き、待ち時間を考えても、だいぶ短くなる。しかも、2ヶ月くらい前に予約したら電車で行くのと費用も変わらない。使わない手はないのである。
手を振る人たち
飛行機に乗り込み、滑走路に向けて出発するときに、整備士の人たちが手を振ってくれる。手を振る意味は、「いってらっしゃい」なのか「たのしんできて」なのかわからない。けれど、応えるようにこちらからも手を振り返す。手を振っている自分でも「いってきます」なのか「ありがとう」なのか、意味はわからないけれど、手を振ってこたえる。
松本空港の周辺は公園になっている。ぼくが飛行機に乗る10時すぎには、公園で散歩する人、飛行機を見ている人がちらほらいる。飛行機が離陸の出発地点まで移動する間にも、その人達は手を振ってくれる。犬の散歩をしながら手を振る人、仁王立ちしながら両手で手を振っている人、ほとんどの人が手を振ってくれている。ここでも手を振る意味はわからない。ただ飛行機だからと手を振っているのかもしれないし、なにか意味が込められているのかもしれない。向こうからこちらが見えているのかわからないけれど、それでもぼくはその人達に手を振り返す。
手を振り合っている、ということがなんだかうれしいのである。
相手のための行為
人はなぜ手を振るのだろうか。
たとえば遠くに行く知人に、手を振る。元気でいてね、がんばってね、いってらっしゃい、またね、いつでも帰っておいで。たぶんそんな意味が込められている。それらを全部込めて、手を振っている。
たとえば出迎える久しぶりに会う人に、手を振る。ここだよ、よく来たね、待ってたよ、無事でよかった。そのような意味が込められているだろう。
つまり手を振るとは、自分のためではなく、相手のための行為なのだ。相手を思い、相手のためにする行為であり、愛情表現なのだ。言葉が届かないあの人に思いを伝えるために、あるいは言葉にできない感情を伝えるために、人は手を振るのだ。
たとえ知らない人でも、手を振り合えることがうれしいのは、愛とまではいかなくてもプラスの感情のやり取りが生じるからだろう。
手を振るおとなに
息子が手を振っていた姿を思い出す。お正月、仲の良い従兄妹たちと遊んだあと、別れるときに「おーい、またねー!」と言って手を振っている。声を張り上げ、手をピンと伸ばし、体全体でなにかを伝えている。そして別れたあと、静かになった息子は寂しさを感じつつも、やりきったような表情をしていた。
おとなになると手を振る機会は少なくなるように思う。それは、手を振るという行為に子供じみた印象や、小っ恥ずかしさや、カッコ悪さを感じるからだろう。おとなになると、周りの目を気にして感情表現することを躊躇してしまうものなのだ。
だからこそ手を振るおとなはカッコいいと思う。周りの目を気にするより相手を思い、伝えようとする姿は、いまを、自分を、生きている感じがする。
ぼくも手を振れる大人になろうと思う。
手を振って後悔することなんて、きっとないのだから。
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