【今週の気づき】とは、社内風土改革と称して勝手に始めた社内メルマガ(執筆は業務時間外)の内容を、社外秘を含まないよう一部加筆修正してブログ化したコラムである。
今週もまた木曜日がきてしまった。
木曜日の朝、起きたときにまずこんなふうに思う。「今週の気づき」は木曜日の夜に書くと決めているのだけど、書く作業はなかなかにしんどいからだ。
そのしんどさを想像し、少し緊張する。例えるなら、学生時代の部活で、これからとんでもなくキツイ練習が待っているときに感じた緊張感に似ている。憂鬱さと、相当なめんどくささと、これらにまったく釣り合わないが、乗り越えたら新しい自分に出会えるかもしれないという、ほんのひとつまみの楽しみが混じっている。
「やめればいいのに」と、そう思うかもしれない。僕も逆の立場だったらそう思っているだろう。きっとやめたところで何の影響もないし、続けたところで何かが大きく変わるとも思えない。なにより自分で勝手に始めたことだ。
でもじつは、「なかなか大変なことを始めてしまった」と思いはするものの、「こんなこと始めなければよかった」と後悔したことはない。そして「まだこの先も続けてもいい」とさえ思っている。それはなぜなのか。今週はこの疑問に対する気づきである。
丁寧につくると継続できる
きっかけは、古賀史健さん(『嫌われる勇気』の著者のひとり)のコラムを読んだことだった。自分がなぜ苦しみながらも続けられるのかが少しだけわかった気がする。これはきっと僕だけでなく他の人にも当てはまると思う。
仕事でも趣味でも恋愛でも人間関係でも、なんでも一緒だと思う。雑に扱ったそれは、かならず飽きる。丁寧に扱ったそれは、かならず育つ。ノルマ的な仕事がつまらないのは、それを雑にこなす自分がいるからでもある。雑でもこなせてしまう自分が、対象を飽きさせる。
https://note.com/fumiken/n/n008614a79270
何かを続けるためには、雑にしないこと。雑にするから飽きる。丁寧にやることが継続に必要なことだというのだ。
誰かに読んでもらう前提で何かを書くと、少なからず丁寧であろうとする意識が働く。僕の場合、相手の時間を使って読んでもらうからには、せめて暇つぶしくらいにはなるものを作りたいと思う。そのため、構成や文脈、言い回しを考えるなど、丁寧であらざるを得ない。だから苦しみつつも運よく続けられたのだ。そして運よく続けられたから、さらにその先にある続ける理由が見えてくる。それは書くという行為が、丁寧に生きたいという僕の願いみたいなものに通じている気がするからだ。
丁寧に生きるには自分を空にしておくこと
やはり書くことは苦しい。何が苦しいかというと何も書くことがないからだ。一週間のうちで何か学べたことはないか。何か書けそうなことはないか。何か深掘りすれば学びが出てきそうな出来事はなかっただろうか。心が動いたことは何かあっただろうか。これらを考えてみても基本的に何も出てこないのだ。何もなさすぎて家の床でのたうち回ることもある。比喩ではなく実際にのたうち回っている。
何もない絶望の中からやっとの思いで見つけたものを文字にしてみる。すると、「いいものが書けた」と胸を張りたくなることもあれば、「やっぱりダメだった」と絶望して死にたくなることもある。しかし、上手く書けたかという結果にはあまり大きな意味はないのかもしれないと思い始めている。
何もないと思っていたところから、日常にある気づきや学びの欠片を見つけ、それを丁寧に形づくる行為。また形づくるために出し切った後、本当の空になった自分に何が入ってくるのかをよく観察する行為。これが丁寧に生きるということだろう。この過程にこそ意味があると思う。
自分は何に反応し、そこから何を作り、どうやって外に表すのか。そこに自分の本質のようなものが見え隠れする。丁寧に生きるということは自分の本質に近づくことであり、本質に近づくためには自分を空の状態にしておくといい。だから無理にでも何かを書くということは丁寧に生きることに繋がるのだ。
自転車で坂道を上るように
ということで今回はいつもより少し丁寧に書いてみた。丁寧に何かを作ると自分をちょっとだけ好きになれる。これが今回感じたこと。自分を好きになれるから継続もできるのだろう。
ただやっぱり、そうは言っても辛いものは辛い。生きることは自転車で坂道を上り続けるようなものだと誰かが言っていたけど、まさにそんな感じだ。今週もやっとのことで書いたけど、来週のことを考えると気が重くなる。だから、来週のことは考えず、今は出し切った爽快感を少し味わっていたいと思う。明日はちょっとおいしいものでも食べようかと考えながら。