木曜日の朝、起きぬけに昨晩のことを考える。
もうかれこれ1時間ほど経つだろうか。「あのときおれは、こんな話をこんな風にしたらよかったかもしれない」と、頭のなかでシミュレーションしているのである。
水曜日の夜は久しぶりに草野球をやっていたときの先輩と飲みに行った(ぼくはノンアル)。仕事の近況やプライベートの話で盛り上がったあと、二人の共通の話題である野球の話にもなった。途中から先輩の友人と合流して、3人になる。先輩の息子とその友人の息子は同い年で同じ野球チームに入っている。話題はもっぱら息子の野球の話だ。
そのときのぼくはというと、話にあまり入り込まずにフンフンと聞いている時間が長かったと思う。
あとから考えること
そのことについて食事会の翌朝、考えているのである。あのとき自分はどんな発言をしたらよりよい時間になったのだろうかと。
たとえばこんな話題があった。
中学野球でパワハラ的な指導をしている強いチームがある。子どもたちを恫喝し、干す(試合どころか練習もさせない)こともある。でもおれたちはそのような指導はしない。怒る必要はない。
そして、その話題について思い出しながら考える。
コーチの役割とはなんだろうか。自分も息子との関係でたくさんの失敗はあったけど、そのなかでうまくいったときはどうだったか。
相手の欲求や願いを聞くこと(自分でことばにしてもらうこと)、君なら絶対にできると伝え続けること(目標を下げないフォロー)、小さなステップをつくりその支援をすること(方法を伝える)。この3つだな。そうか、コーチの仕事とはこの3つの順番で行うのか。本来、方法を教えるのは3番目だ。これを最初に押し付けようとするから反発が生じてうまくいかない。そのうまくいかない状況を恫喝してやらせようとするのがパワハラなのだ。
また、こんな話もあった。
チームの目標をどう立てるのか。チーム内で子どもたちのレベルの差はけっこうある。
そして、また考える。
そういえばどこかで読んだ、ウサギと亀の話があったな。なぜウサギは亀に負けたのかという話だった。その話はこうだった。
ウサギはなぜ亀に負けたのか。もちろん油断はあったのだけど、油断は本質的な原因ではない。本質的な原因は、両者が見ているものの違いだ。うさぎは亀を見ていた。亀に楽勝で勝つシナリオをつくり、亀と自分の比較から自分の優秀さを示したかった。一方で亀はゴールを見ていた。走り去るウサギも、木陰で休むウサギも関係なく、ゴールだけを見ていた。この見ているものの違いが両者をわけたのだと。
優勝やベスト4など目標(ゴール)自体には比較の要素が含まれる場合がある。でもその目標をいったん決めたら、あとは他者との比較はしなくてもいい。自分のできることをただひたすらやっていけばいい。そうか、目標は設定時には比較になってしまうことがある。それはしょうがない。でも目標に向かう過程での比較はいらないのだ。
こんなことを1時間ほど考え、自分で納得していたのだ。
手元にあるものに注目する
飲み会や食事会などの議題が決まっていない会話では、なにげないひと言やなにげない出来事で議題がコロコロと変わる。流れる会話、そのスピードのなかで自分が発言することもあれば、発言しないこともある。会話することで自分のなかにある考えが、発言したこと、発言しなかったことに自然とわかれていくのだ。
会のなかでは発言したことに注目が集まるし、発言したことに価値があるのだと思う。自分の言葉が誰かの気づきになることや学びにつながることがあるからだ。しかし、会が終わったあとには発言しなかったことにこそ価値が生まれるのではないか。
そのときなにかを感じたのだけど、それがその場では言葉にならずに持ち帰ってきたもの。言おうと思ったけど、うまく言えるかわからずに口に出さなかったこと。こうして言葉として出さずに手元に残ったものが後の思考の出発点になる。外に出さずに手元にあるから考えられるのだ。
言葉に出さずに手元に残ったもの、それは気づきの種であり、その存在に気づけるというのがあまり知られていない飲み会のいいところかもしれない。
言わないから考えられる
仕事の中では議題を決め、いかに短時間で結論に導くかにフォーカスする。仕事の時間が長いと、普段の会話でもつい結論を出すための会話になってしまうけれど、結論を出さない会話というものもいいものである。結論を出さない、ランダムな会話のなかで、自分が言葉にできるものとできないものがわかれていき、言葉にできないもののほうに新しい発見があったりするものだ。