2001年、18歳の春。
僕は電車の中でひとり、背負ったリュックの肩掛け部分をつかみ、手に力を込めていた。
「電車内に、ひったくりがいるかもしれない」
そう思いながら、席に座ることなく、リュックの中と周囲の人に意識を配る。浪人が決まり、予備校の費用を支払いにいくため、100万円近い札束を運んでいたのだ。
高校時代は全くといっていいほど勉強をしなかった。受けた大学も当然のように全て落ち、就職することも考えられず、浪人という選択をした。予備校でも一番下のクラスだ。友達もいない。孤独であり、寂しくもあった。そんな状況でスタートした浪人生活だけど、1年後には大学に受かることになる。
「あの大谷が大学に?」
高校時代の僕を知る人には驚かれた。浪人時代は自分でもよく頑張っていたと思うし、成長という意味で充実はしていた。間違いなく、その後の人生を左右する1年だった。
それでも、もう1度あの1年を経験しろと言われたら、できるかどうかわからない。充実していたからといって、戻りたいとも思わない。ではなぜそんなにも頑張れたのか。もちろん、勉強するうちに、問題が解ける楽しさに気づいたこともある。でもそれ以上に、見たこともない大金を持ち運び、支払った経験が大きいと感じる。
あのお金の意味はなんだったのだろう。両親から、どんな思いを込められて持たされたお金だったのだろう。「絶対に大学に受かれよ」というプレッシャーではない。「いい大学に入ってほしい」という期待でもない。今思い返してみると、「進みたい道があるなら進めばいい」という、「応援」の意味のこもったお金だったのだと思う。応援があったから、孤独なスタート時でも頑張れたのだ。
雇用と非雇用の壁
雇用という形に縛られず自分の可能性を広げるため、個人事業主として会社内で働くことを目指していたけど、認められなかった。水曜日に、事業部の上層部の人と面談をして、最後の話し合いをした結果だ。雇用と非雇用の壁は思った以上に高かった。
雇用内であっても、雇用外であっても、僕という人間が、会社の利益のため、世の中に貢献するために働くことに変わりはない。会社が僕に支払う金額も変わらない。むしろ、成果は個人事業主のほうが求められるし、成果を出す姿勢は自ずと高まる。それでもやはり、雇用は身内、非雇用はよそ者。この意識は根強くあるのだろう。
今回、面談してくれた人は悪い人ではない。むしろ、無茶な提案に、わざわざ時間を割いてくれるくらい、社員のことを考えてくれている人だ。事業状況からして、雇用形態に手を入れるタイミングではなかったのかもしれない。異物が社内に入ることによる、歪みを危惧したのかもしれない。とにかく、社員を守るという意識を強く持っていると感じた。でもそれと同時に、雇用から外れる僕のことは、もう目に入っていないのも伝わってきた。
「雇用外なら必要ない」
そう言われているようだった。
最終出社日
悔しさと、やるせなさを引きずったまま迎えた9月17日の最終出社日だった。でも、帰る頃には温かい気持ちになっていた。
職場で開いてもらった退職挨拶会。かけてくれる言葉。色紙に書かれたメッセージ。わざわざ席まで足を運び、話をしてくれる人。メールでの温かい言葉。
心配する声、共感してくれる言葉、いつでも連絡してきてという気遣い、また飲みに行こうという誘い。表現方法は違っても、これら全ては「応援」の言葉だった。もちろん、直接「応援する」と力強く伝えてくれる人もいた。「進みたい道があるなら進めばいい」と、応援してくれる人達ばかりだった。
人生の浪人時代
退職後のこれからは、人生の浪人時代と呼べる期間になるのだろう。それも1年という区切りはなく、2年、3年、もしかしたらもっと続くかもしれない。きっと大変なものになる。もう二度と経験したくない期間になるかもしれない。絶対に戻りたくない数年間になるかもしれない。それでも、乗り越えた先には、「あの期間があったから今の自分がある」と思えているはずだ。成長した自分になっているはずだ。
それに、なんとなく、本当になんとなくだし根拠は無いのだけど、乗り越えられるような気もしているんだよね。
そう思えるのはきっと、今回もらった、たくさんの「応援」があるからだろう。