聖書の中に登場する話だったと思う。
どこかの国の王様が、お告げを聞いて国の方針を変える。どこかの国の名も無い若者が、ある日お告げを聞いて旅に出る。
幼いころに教会で聞いた話だったか、絵本で読んだ物語だったか、こういう話が聖書にはいくつかあったと思う。聖書の話を聞いて、幼いころのぼくは「お告げには従うものなんだなあ」くらいに思っていた。それまでの国の方針や暮らしを捨ててまで、お告げに従うことは大事なことなんだなあと。
神の声という理由付け
もう少し大きくなってみるとわかる。そういった神からのお告げというものは、実際には存在しないのだし、ある日突然、神の言葉が聞こえてくることもないのだと。やっぱり聖書の中にある話はつくり話であり、フィクションなのだと、少し大きくなったぼくは、そのように認識していた。
しかしながら最近は、脚色されてはいるものの、完全なつくり話というわけでもないのだと思う自分がいる。ある国の王様が神の声を夜中に実際に聞いたとは思わない。けれど、その神の声に近い思いが自分の中に以前からずっとあり、なにかのきっかけで表出したのではないか。
日常の流れにはそぐわないけれどこれをやった方がいい、あれをやりたい、と思っていたものが、目の前でいくつかの出来事が重なることにより、「やっぱりやるしかない」と合点がいったのではないか。その瞬間がまさに「神の声」のように思えただけではないか。
よくも悪くも日常は進んでいく。思い通りだとしても、思い通りでなかったとしても、進んでいってしまう。その日常を変えるのは簡単ではないし、方向転換するには理由がいる。それもかなり強い理由が必要だ。
だからこそ、変えるための理由として「神の声」という抗えないほどの外部の大きな力を信じたのではないだろうか。もう神様が言っているのだからしょうがないと、自分も周囲の人間も、まとめて納得させようとしたのではないか。
コンパスに目を向ける
ぼくの周りにいるパワフルで行動力のある人の多くは「運命」ということばをよく使う。そういう人ほど、目の前の現象から心に従うためのメッセージを読み取るのが上手であり、心に従えるから行動力もあるのだろう。
山口周さんがツイッターで「考えることは地図づくりであり、感じることはコンパスである。両方必要」というような内容を呟いていた。変化の激しい現代にあって、地図をアップデートし続ける作業は必須だけど、地図の更新ばかりに目が行ってしまうと感じるコンパスの力が弱まってしまう。
目の前の出来事を、なにかのお告げやメッセージとして受け取るのは、立ち止まってコンパスを確認するようなものなのだろう。自分はどうしたいのか。自分はどうありたいのか。考えることが多くなった現代こそ、目の前の出来事から自分の心に問いかける時間は貴重になってくるように思える。
お告げ
ぼくはというと、ここ数日、微熱や喉痛や胃腸炎っぽい症状が続いている。普段ならただの風邪だとあまり気にしないのだけれど、これもなにかのメッセージなのだろうか。メッセージだとしたら、「ちょっと休んでもいいよ」というお告げであることを願っています。
あと、ぼくは考えるのが好きで地図をつくるのが得意です。「運命」を感じ過ぎて迷子になっている方はご連絡ください。一緒に地図をつくりましょう。
今週のいちまい
さくらんぼ狩りに行きました。同じ木でも取る位置によってさくらんぼの味は変わりますね。木の上のほうが甘かったです。
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