ショートケーキがたまらなく好きだった。
小学校の低学年の頃だっただろうか。ぼくは誕生日に食べるショートケーキがたまらなく好きだった。家族の誰かの誕生日にはホールのショートケーキを両親が買ってきてくれて、家族で切り分けて食べる。年に数回のこのイベントをいつも心待ちにしていた。
でもある年、ぼくは自分用に切り分けられたケーキをほとんど食べなかった。考えがあってのことだ。
一度に全部食べるのではなく、少しずつ何日にもわけて食べよう。そうすれば、このケーキの日が何日にも増やせる。少しずつ食べれば、明日もあさっても、この先ずっと、ケーキが味わえる。なんて名案なんだ。
ただ、普通に冷蔵庫にとっておいたら、誰かに食べられてしまう。きっとふたりの兄のうちのどちらかが、あるいは両親が、食べてしまうだろう。冷蔵庫ではなく、自分だけが知っている場所に隠さないといけない。
そう考えたぼくは、食器棚の裏側、棚と床との接地面にある小さい穴に手をツッコミ、その中にケーキを隠しておくことにした。
これでもう誰にもバレない。そしてこのケーキを少しずつ、何日にもわけて食べるのだ。これからおれは毎日ケーキが食べられるのだ。
それからは夕食後にコソコソと食器棚の裏に手をツッコミ、ケーキを出してはほんの少しだけ食べる。そんな日が続いた。
1週間くらいたったころだろうか。舐めるように食べていたケーキに異変が出ているのに気がついた。色がおかしいのだ。ピンクがかった明らかにケーキではない色がついている。そしてなんだかフワフワしたものもある。
急にどうした? なんだこれは?
ケーキを隠していたことがバレるのはしょうがないけれど、このケーキの異変を両親に聞かないわけにいかない。そして、すぐにカビだと言われた。もうこのケーキは食べられない、と言われた。
そのあとの会話のことは覚えていない。叱られたりはしなかったように思う。ただただショックを受けたのを覚えている。
あんなに毎日食べるのを楽しみにしていたケーキが、まだまだ食べられると思っていたケーキが、半分以上残っていたケーキが、食べられないことにショックを受けていた。腐るなんて、カビが生えるなんて、聞いてないぞ。
このときぼくは、食べものは腐るしカビが生えることを、実体験から学んだのだ。
実体験からの学びには、痛みが伴うことがある。むしろ痛みが伴ったほうが学びになる。痛みがあるから学びとして刻まれるのだ。
ただ痛みがあるうちは、学びなんて言ってられないのもまた、事実だろう。あのときのぼくは、「腐るのがわかってよかったね」なんて言葉はとてもじゃないけど聞き入れられなかった。
自分は何者か
さて、ぼくはいま痛みのさ中にある、と言えるのかもしれない。その痛みとは、「お前はいったい何者なのか」とずっと問いかけられているが、それに答えられずにいることからくる、苦しさだ。
前職では「光学技術者」と言えた。そこに自分の専門性があり、自分が自信をもって役に立てる部分だとも思っていた。でもいまは、光学の開発はしていないし、ものづくりにも関わっていない。言ってみれば武器がない状態であり、アイデンティティーを失った状態である。
もちろんこれは会社を辞める前からわかっていたことではある。だからこそ、この1年は自分にできる限りのことを精一杯やってきた。それでもまだ、自分は何者なのかは見えないでいる。
痛みがあるいまは学びなんて言えないけれど、この経験もまた、痛みが過ぎたあとは学びになっているのだと思う。それはどんな学びになるかわからないし、ひょっとしたら「そんなの当たり前じゃん」をただ実感するだけになるかもしれない。けれど、ショートケーキからの学びを今書いているように、数年後や数十年後には、少なくともブログに書けるネタなっているはずだ。
そんなことを、天皇誕生日の日に、スーパーで買ったケーキを食べながら考えていたのだ。
今週のいちまい
この時期は山ばかり撮っちゃいます。撮り山です。決して登りません。
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