今週の気づき PR

【今週の気づき/180】利己と利他をつなげる

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ぼくはキリスト教の家系で育てられた。

毎日、夕食を食べるときにはお祈りをする。「天の神様。今日も一日無事に過ごせたことに感謝します。アーメン」と言ってからご飯を食べはじめる。

また日曜日には教会に行って聖書の物語を聞く。モーゼが川を渡った話とか、ノアの方舟の話とか、あるいはキリストが病人を助けた話とか。物語の中には神様が当たり前に出てくる。いいことは神様が見ている。いいことをしていれば神様が助けてくれる。小さかったぼくは「そういうものなんだ」と理解していた。

そんな環境で育っていたぼくが小学校低学年のころ、住んでいたマンションには駐輪場がいくつかあった。その日は風が強かったせいか、あるいは誰かが倒してしまったせいか、自転車が将棋倒しになっている場所があった。それを見たぼくは、「ここだ」と思った。「ここでいいことをすれば、きっと神様が見てくれている。いいことをするんだから神様が力を貸してくれる」そう考えて、倒れていた自転車を一台ずつ起こしていった。

しかしである。倒れた自転車のハンドルは絡まりやすい。起こそうと思っても絡まって思うようにいかない。何台目かの自転車を起こそうとハンドルを引っ張ったとき、ぼくは脛を自転車のスタンド部分にぶつけた。無防備な脛に結構な勢いで。

「とってもいいことをしているはずなのに、なんでこんな目に合わなければいけないのだ。ひどいじゃないか。神様は見ているんじゃなかったのか。どういうことだ。神様なんていないじゃないか」

そう思い、それ以降は倒れた自転車を起こすことはなくなったのである。

徳を拾う

時は経ち現在、ぼくは街を歩いているときに目についたゴミを拾うことをはじめた。全てのゴミではないけれど、気になるものはなるべく拾うことにしている。

もちろん、ゴミを拾っている姿を見られて「いい人だ」と思われるかもしれないという下心もたしかにある。しかしそれ以上に、ゴミを拾うことは自分のためだと思っている。

ゴミを拾うとなぜ自分のためになるのか。それは、徳を積めると思っているからである。ぼくは稼げるようになりたいと思っている。そしてきっと稼げる人とは徳を積んだ人である。だから自分はいま徳を積む必要がある。落ちているのはゴミではなく、徳だと思っている。つまり100%自分のためにやっている行為なのである。

利己と利他をつなげる

「いい行い」というと、みんなのため、誰かのために行動を起こすような利他的な含みがある。そして利他ということばには、自分よりも他者を優先しているような、ときとして自己犠牲しているようなニュアンスを感じることもある。

みんなのために動ける人、誰かのために自分の時間を使える人はたしかにいる。どうしたらあんな風になれるのだろうと心から思う。

でももしかしたら、そういう人たちは利己と利他をうまくつなげられる人なんじゃないかと思う。自分のためになることを理解しつつ、誰かのためになることも知っている。だから動けるし、継続できるのではないかと思うのだ。

見返りを期待するのではなく、それをやること自体が自分のためになると思うから始められる。そして、それが誰かの役に立つと思うから、行動を続けられるのだろう。

自分のためだから始められる。それがたまに誰かのためになるから続けられるのだ。

徳を入れるビニール袋

ということで、最近ぼくはカバンにビニール袋を常備して、少しばかりの徳を積んでおります。ゴミを拾ったところで稼げるようになるかはわかりませんが、なりたい自分に近づけている感覚もあります。拾う動作は小っ恥ずかしくもありますが、悪くないものですよ。

レシートのような小さいものから始めるのがおすすめです。